三重県の四日市市周辺で焼かれている炻器です。日本では土鍋の生産の70~80%をこの萬古焼が占めていると言われており、夏によく見られる豚の形の「蚊遣豚(かやりぶた)」、独特の色合いを発する紫泥の急須なども有名です。
その他も制作される作品は多種多様で、耐久性と耐熱性に優れた炻器であると共に、ほとんどの作品に「萬古」の印がみられるという点が萬古焼の大きな特徴の1つでもあります。
萬古焼の歴史
萬古焼の始まりは江戸時代中頃、当時陶器を専門に扱っていた廻船問屋、沼波家に生まれた沼波弄山(ぬなみろうざん)によるものでした。幼い頃から茶道を嗜んでいた弄山が窯を開き、萬古焼が完成したのです。廻船問屋の屋号から名前が付けられた萬古焼は、尾形乾山などに技術を習いながら茶碗の制作が開始されました。美しい色絵が施された作品は当時の上流階級や文化人の間で人気を博しましたが、弄山の亡き後、後継者不足の為、途絶えることとなります。
萬古焼が再興したのは、その約30年後でした。木工を得意とした森有節(ゆうせつ)と、優れた発明や工夫をした森千秋(せんしゅう)の兄弟が再び窯を築いたのです。弄山の時代に制作された萬古焼は「古萬古」と呼ばれ茶道具がよく作られましたが、対して煎茶道が流行したこの時代には、華麗な色絵付けが施された急須が人気を得ました。中でも有節の木工技術を活かして作られた木枠を使って出来上がった急須は特に評判を得て、藩からの保護を受け東海道土産として流通していきます。
その後萬古焼の技術は発展し、木型だけでなく土型の開発や粉彩絵の具の開発が進み、明治時代には四日市市の代表的な産業として定着しました。急須以外にも様々な商品を売り出した萬古焼は海外にも輸出され、大量生産したことによって陶土不足も起こりますが、代わりとして使用した鉄分を多く含んだ陶土により、紫泥急須が開発され、萬古焼は最盛期を迎えます。
最盛期を過ぎた後も、大正時代には土瓶の生産、昭和時代には戦火からの復興を遂げ、現在でも高いシェア率を誇る土鍋や、盆栽用植木鉢の生産を続け萬古焼は現在に至っています。
ちなみに、萬古焼は時代の流れと共に「古萬古」の後から「有節萬古」「明治萬古」「大正焼」「四日市萬古」と呼び名が変化しており、それぞれに少しずつ、異なる特徴を持っています。