京焼・清水焼は京都市周辺で製造されている陶磁器で、元々は京都、あるいは清水寺の参道で制作されていたものをこう呼んでいました。
多種多様な技法を用いた作品が多く、中でも有名な、焼成後に絵付けがされる上絵付け以外にも青磁や天目釉を用いるなど窯によって様々な表現が見られます。
京焼・清水焼の名工
京焼は江戸時代が始まった17世紀初期、あるいは16世紀の終わりごろから生産されていたと言われており、茶の湯や華道、香道などと共に発展してきました。日本文化の礎となった芸術家が多く活躍した京都で出来上がったこの京焼は、上絵付けを施すものが多かったこともあり、各時代で名工による作品が制作されています。
京焼が完成した初期の名工として挙げられるのは、仁和寺の門前に窯を築いた野々村仁清(ののむらにんせい)、そしてその弟子である尾形乾山(おがたけんざん)です。野々村仁清は京焼において、それまでの「写し」が主流だった茶陶製造から、色絵を施すことで多種多様なデザインを生み出す作風を確立しました。この流れにさらに勢いを加えたのが尾形乾山で、彼は兄であり画家の尾形光琳と合作で作品を制作し多くの名作を生み、京焼の名をさらに広めて行きます。
江戸時代中期から後期にかけて京焼は最盛期を迎え、奥田潁川(おくだえいせん)によって磁器の制作技術が確立されました。その後も絵師の青木木米(あおきもくべい)や欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)、仁阿弥道八(にんあみどうはち)などの名工が多く生まれ、中でも仁清、乾山、木米は「京焼三名工」と呼ばれています。国内でも高い技術を誇った京焼の技術は全国的に知られており、京焼の名工たちは京焼以外のやきもの(三田焼・九谷焼など)の復興や発展にも力を注ぎました。
明治時代になると、鎖国が解かれ西欧文化が広まったことで茶道の文化が衰退し、茶器の需要も減退してしまいます。しかし、煎茶道具の生産で成長を続けた清水の窯を始め、京焼・清水焼はそれまでの高い技術を活かした芸術品や日用雑器を制作し、三代清風与平(せいふうよへい)や諏訪蘇山(すわそざん)、宮川香山(みやがわこうざん)らは帝室技芸員として認められました。
その後、廃窯になったものも多くいましたが、京焼の技術は養成学校の設立などで現代まで受け継がれ、日用雑器以外にも芸術作品としての京焼や高級食器の生産などを続けています。