後楽園焼は御庭焼の1つとして知られています。御庭焼とは、江戸時代に陶磁器に興味のあった藩主や城主などが、陶工を招いて窯を築き、焼かせたものです。自分の趣向に合わせた陶磁器を作らせ、主に贈答品として扱われました。後楽園焼の作品には「後楽」「後楽園製」の陶印が見て取れます。
後楽園焼の歴史
後楽園焼は江戸後楽園焼とも呼ばれ、水戸徳川家の江戸屋敷にある、後楽園で焼かれたやきものです。江戸時代中期の1750年代に始まり、京都から楽長入という陶工を招いて制作されたと言われています。
この陶工楽長入は、代々楽焼を制作している楽家の7代目であったため、後楽園焼にもその作風は大きく影響し、当初後楽園焼きは楽焼風の作品が多く焼かれていました。
その後1830~40年代には、紀州の御庭焼であった偕楽園焼を模倣し、中国の陶磁器である交趾焼の写しが制作されていきます。どの作品も質が高く好評化を得ていましたが、御庭焼の品とされ大衆には出回らなかった為、現存するものは多くはありません。
後楽園焼は6代藩主斉修(なりのぶ)から9代斉照(なりあき)の間に最盛期を迎えました。歴代の藩主たちが自ら製陶した作品もあり、その作品には「鼎山」、「景山」などそれぞれの印が押されています。