御深井焼は現在の愛知県、尾張藩で焼かれていた御庭焼の1つです。御庭焼とは、江戸時代、やきものに関心のあった城主や藩主などが、窯を築いて焼かせたものです。自分の趣向に合わせた作品を作らせ、主に贈答品として用いられました。
御深井焼の歴史
御深井焼の始まりは、江戸時代初期でした。尾張藩の初代藩主である徳川義直が、産業保護の一環として瀬戸の陶工たちの離散を防ぐべく、名古屋城内の外廓「御深井丸(おふけまる)」に窯を築いたのがきっかけです。
義直はまず、美濃に移住した瀬戸焼の陶工の一族から、3名を呼び戻しました。そして1616年頃に開窯し、「古瀬戸釉」と呼ばれる茶褐色の釉薬と、祖母懐(そぼかい)という土地の陶土を使用して天目茶碗や茶器を制作します。やがて御深井丸に登り窯を築くとさらに陶工たちを呼び寄せ、作品を制作していきました。
その後2代藩主光友がこの窯を受け継ぎますが、御深井窯は一時途絶え、10代藩主斎朝(なりとも)の時に再び復興、それが廃窯となると後に12代藩主斉荘(なりたか)の時にも復興を果たしています。時代の流れと共に御深井焼は作風も変化しており、一貫して祖母懐の白鼠色をした硬い陶土を用いながらも、古瀬戸釉だけでなく透明感が特徴の御深井釉を使用したり、後期には染付磁器も制作しています。
御深井窯はその後も継続しましたが、明治期に尾張藩が廃藩となると窯も廃窯となってしまいました。現存する作品は多くはありませんが、作品には「祖母懐」「御深井」「深井」「深井焼之」などの印が見られます。