吉田博(よしだひろし)
明治時代初頭から昭和時代中期にかけて活躍した洋画家、または版画家です。風景画を得意とし、油彩画以外にも水彩画や木版画の才能も優れていました。
吉田博の歴史
1876年、福岡県の久留米藩士の子として生まれました。その後12歳の時に福岡県立修猷館へ入学すると、同校で図画教師をしていた画家・吉田嘉三郎にその才能を認められ、吉田博は吉田嘉三郎の養子となっています。卒業後は、京都で西洋画を描く画僧として名を馳せていた田村宗立に弟子入りし、また当時知り合った洋画家の三宅克己の影響で水彩画もはじめました。その後上京すると明治美術会に入って制作活動を行い、作品展に出品を重ねます。やがて23才の頃にはアメリカへ渡り、デトロイト美術館やボストン美術館での作品展開催に成功しました。続けてフランスやイタリア、ドイツなどのヨーロッパ各地を訪れ、この間に開かれたパリ万博に作品『高山流水』を出品した際には、賞状を授与されています。
帰国後、吉田博は1901年に解散していた明治美術会を引継ぎ、満谷国四郎や石川寅治とともに太平洋画会を設立しました。この展示会では20点以上もの作品を一度に出品することもあり、当時の画壇を盛り上げた一員となっています。以後も制作活動を積極的に行い、2度目の渡米でセントルイス万博に出品した際には銀賞碑を受賞。続けてニューヨークやワシントンなどアメリカ国内での展覧会開催やエジプト・モロッコなどへの遊学も行い、自身の作風の土台作りを行っていきました。1906年からは日本で数々の作品展に出品し、文展に出品した『新月』はその後文部省の買い上げ作品となっています。
このように何度も西欧諸国の美術に触れ、帰国直後は油彩画や水彩画でその成果を発揮してきた吉田博でしたが、1920年、44歳の頃からは木版画もその表現手段の一つとして取り入れています。この木版画を広めるために吉田は再びアメリカへ渡って展覧会を開催し、帰国後は逆に欧州の風景を木版画にした作品を日本で発表し好評を得ました。戦後はマッカーサー夫人や中国の李王家からも人気を得、1947年には太平洋画会会長となるなど、国内外でその名を広げていきました。
新版画
吉田博が着目した木版画であり、江戸時代に流行った浮世絵版画とはまた違うジャンルに位置づけられています。新版画は明治半ば、1897年前後から昭和にかけて制作された木版画です。当時外国から大量印刷の技術が輸入され、江戸時代の浮世絵ブームがどんどん衰退していく中で、その復興を目的として発展していったのがこの新版画でした。
始まりは輸出用浮世絵の制作をしていた版元の渡辺庄三郎、そしてその言動に協力した数人の欧米人です。新版画は絵師、彫師、摺師の専門職による分業によって出来上がる、浮世絵版画と同じ制作工程を踏んで完成されますが、大きく異なるのはその絵師たちと作風です。肉筆画のようなリアルさや欧米の文化の混じり始めた当時の生活風景、そして日本人だけでなく多くの欧米人も絵師として活躍しました。