和骨董大辞典

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熊谷守一(くまがいもりかず)

熊谷守一(くまがいもりかず)

 

明治初期から昭和末期にかけて活躍した画家で、洋画も日本画も描いています。対象を単純化した線と明るい色使いで、身近な花や虫、動物などを多く描きました。

 

熊谷守一の歴史

 

1880年、岐阜県で生まれました。父は地元の名士とも呼ばれた人物で、知識もお金もないところから製糸業を経て県議会議員、岐阜市長を務め、在任中は市制の実現と人口増加を成功させています。幼少期、熊谷守一は父の妾の下で異母兄弟と暮らしていたと言われますが、すでにこの頃から絵を好んでいました。その後10代前半には水彩画を描き始め、17歳で上京後に画家を志望している旨を父に告げ、翌年には共立美術学館に入学しています。さらに2年後には東京美術学校に入り、東北地方へスケッチ旅行に出るなど自身の腕を磨いていきました。

 

1909年に文展に出品した自画像で賞を受賞した熊谷は、以後、日雇いの職と並行しながら作品展へ出品を続けています。

しかし、一時期は絵が描けない時期もありました。40代前半の頃に結婚したあとはそのような状態が続いて貧困状態に陥り、それが原因で息子の1人を失くしています。衝撃を受けた熊谷守一は翌年から二科技塾にて絵の指導をはじめ、数年後には制作活動も再開。58歳の時には個展の開催にも成功しました。

 

晩年、熊谷守一は70代の時に脳卒中で倒れて以降、自宅で身近な自然を観察するようになります。昼間は自宅の庭、夜はアトリエで動植物や裸婦を好んで描きました。97歳で亡くなるまでこのような生活を続ける中でも、その腕はたしかに認められ、国から文化勲章や勲三等の内示を受けますがどちらも辞退しています。

 

 

 

文展(ぶんてん)/帝展(ていてん)/日展(にってん)

 

文部省美術展覧会の略称です。フランスのサロンを見本にし、1907年に第1回目が開催されました。この開設には当時精力的に活動していた、その他の美術団体を統合させる意味も含まれていました。なお、この「文展」の名は1919年、この展覧会が文部省の管轄による「帝国美術院展覧会」となるまで使われています。改名以降は「帝国美術院展覧会」を略して「帝展」と呼ばれました。

 

文展は1907年から1918年までの全12回、帝展は1919年から1945年までの間に25回行われています(192319351945年は開催がなく、その他年度によっては特別展なども行われました)

1946年以降、帝展は「日本美術展覧会」として改められ、以降毎年続けられています。

 

 

 

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