山下新太郎(やましたしんたろう)
山下新太郎は明治時代前半から昭和時代後半にかけて活躍した洋画家です。印象派の画家ルノワールの影響を大きく受けた作風を特徴としながら、油彩画の修復などにも才能を表しました。
山下新太郎の歴史
1881年、東京の表具師の家に生まれました。この表具師とは掛け軸や額、襖や衝立、屏風など布や紙を貼ることで仕立て上げる「表具」の表装を仕事としている職人のことです。その影響からか山下新太郎は幼い頃から絵を好み、絵においては父と親交のあった日本画家・狩野芳崖に依頼した天神図を。書においては書家の新岡旭宇の書を。そのほか漢文と英語を義兄の西田長左衛門に学ぶなど名高い師たちに多くを学びました。やがて20歳の頃になると洋画家の藤島武二に木炭画を習い、東京美術学校の西洋画科に入学すると黒田精輝に師事しています。在学中は優秀な成績を収め、飛び級で1年繰り上げて同校を卒業しましたが、同時に語学学校に入学し、翌年には欧米へ留学しました。
留学先のフランスでは国立の美術学校エコール・デ・ボザールに入学し、ゴッホやロートレックなど名だたる画家たちを指導した画家フェルナン・コルモンに学んでいます。また、この留学期間にはスペインやセビリアなどへも旅行し、芸術作品の模写をしてまわって腕を磨きました。その後27歳の時のサロン・ド・パリに『窓際』、翌年には『読書』などを出品し、1910年の帰国前にはイタリア旅行に赴いています。帰国後は文展に、留学中に制作した『読書』、『読書の後』、『靴の女』の3作品を出品し、三等賞を受賞。翌年も同じく三等賞を受賞し、徐々に名を広めていきました。
30代になると石井柏亭や有島生馬などの仲間たちと二科会を結成し、以降は二科展に自身の家族などを描いた作品を出品し、そのほか朝鮮鉄道局の希望を受けて朝鮮ホテル内の壁画を完成させています。また、50歳の頃に再び訪れたフランスでは東洋画の屏風絵を修復し、レジオンドヌール勲章シュヴァリエをフランスから授与されました。
その後も帝国美術院の会員や日展理事などの要職を歴任し、74歳の時には文化功労章を受章するなどしています。
フェルナン・コルモン
19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したフランス人画家です。1863年に山下新太郎と同じくエコール・デ・ボザールに入学し、在学中は『ヴィーナスの誕生』などの作者として有名なアレクサンドル・カバネルに師事しました。
フェルナン・コモンは先史時代などを中心とした歴史画、また物語を題材とした作品を多く描き、レジオンドヌール勲章の受賞、フランス芸術家協会の会長などを歴任しています。さらに出身校であるエコール・デ・ボザールで教授職も務め、前述したゴッホやロートレック、そして山下新太郎のほかにベルナールや藤島武二の指導にもあたりました。
伝統を重んじるアカデミズム絵画の大家でありながら、弟子たちの描く新しい個性を尊重した教育を行った人物として知られています。