和骨董大辞典

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倉田白羊(くらたはくよう)

倉田白羊(くらたはくよう)

 

明治時代前半から昭和初期にかけて活躍した洋画家です。浦和画家としても知られるほか、太平洋画会やパンの会にも参加しました。

 

倉田白羊の歴史

 

倉田白羊は1881年に埼玉県の浦和に生まれます。その後家族で上京すると、10代前半の頃に親戚であり、著名な洋画家であった浅井忠に師事して絵を学び始めました。もともと浅井忠には倉田白羊の兄が師事していましたが、兄は20代前半で亡くなってしまい、その遺志を継ぐべく弟の白羊が弟子入りをしたと言われています。

 

その後17歳の時、浅井忠が東京美術学校の教師となったことをきっかけに白羊も同校に入学し、3年後、学年1位の成績で卒業しました。卒業後はすぐに群馬県で中学教師の職に就きましたが、同時に太平洋画会での活動も行っていたこともあり、徐々に画家になりたいという志がふくらみ、3年後には新聞社に転職しています。ここでは記者、そして画家として活躍し、美術展評価や挿絵などの業務を担当。並行して少しずつ自身の制作活動も行いました。

「白羊」の号を使用し始めたのもこの頃だと言われ、26歳の頃からは文展で頻繁に入選するようになります。太平洋画会の展覧会に出品した作品も宮内省の買い上げとなるなどその名を広めていき、さらに森田恒友や山本鼎らが創刊を始めた「方寸」やパンの会など、美術雑誌や芸術団体にも参加。34歳の時には個展の開催にも成功しました。1916年からは旅行先の朝鮮で大自然を目にしたことをきっかけに、倉田白羊の描く作品には人物よりも自然をとらえたものが多くなっていきます。

 

以降は制作を続ける傍らで、40代の頃には一般の洋画団体・春陽会の設立に参加し、そのほか日本農民美術研究所の副所長や、千葉県での絵画教室の指導など、57歳で亡くなる晩年まで、後進の育成に尽力しました。

 

 

 

浦和画家

 

その名の通り埼玉県の浦和市周辺にいた、画家を含めた芸術家たちのことを言います。この呼び方が広まったのは1923年に起こった関東大震災の後のことで、理由として、甚大な被害を被った東京から比較的倒壊の少なかった浦和に、当時の芸術家の多くが移り住んだこと。そして文学者が多く居た鎌倉の文化人たちを総称した呼び名である「鎌倉文士」と並んで、「浦和画家」の呼び名も広まりました。

 

出版社や美術学校のあった東京への交通手段も利便性が高く、昭和前半の最盛期には「浦和アトリエ村」と呼ばれるほど画家たちが集まっていたと言われています。

 

 

 

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