坂本繁二郎(さかもとはんじろう)
明治時代後半から昭和にかけて活躍した洋画家です。70台の頃には文化勲章を授与されました。
坂本繁二郎の歴史
1882年、福岡県に生まれます。10歳の頃から画家の森三美(もりみよし)に弟子入りし、小学生になるころには神童と言われるほどになっていました。父が幼い頃に亡くなっていたため次男である繁二郎は進学せずにそのまま絵の制作に専念し、その後、森三美の後任として母校の図画代用教員を務めています。
この頃坂本繁二郎と同郷で、同じ歳であった画家の青木繁は東京で絵画を学んでおり、やがて青木の腕の上達に驚いた繁二郎は、教員を辞め、20歳で青木と共に東京の画塾『不同舎』に入りました。以後、第一回の文展が開催されると出品作が入選し、以降も夏目漱石から良い評価を得たことで徐々にその名を広めていきます。40歳の頃にはフランスへ渡ってシャルル・ゲランに学びましたが、坂本繁二郎は現地の名だたる画家たちが描いた絵画よりも、自然の風景の明るさに圧倒されたと言われています。この留学経験をきっかけにその画風はより鮮やかで明るいものとなり、現地の芸術家たちからも高い評価を得ました。
3年後、九州に帰った坂本繁二郎はヨーロッパで学んだ技法を駆使して作品を制作していき、60歳を迎えた時には二科展で自身の還暦記念の特別展示が行われるほどに名をあげていました。以後は洋画界の巨匠として70代半ばには文化勲章も受賞しています。
森三美
1872年に坂本繁二郎と同じく福岡の久留米に生まれた洋画家です。京都府立画学校にて絵を学び、また明治初の美術学校であった工部美術学校を卒業した芸術家・小山三造に3年間師事しました。やがて久留米に帰郷し画塾を開いたり、図画教師を務めたりと後進の教育に励んでいきます。この間に森三美の指導を受けたのが、坂本繁二郎、そしてそのライバルでもあった青木繁でした。そのほかにも大野米次郎や松田諦晶など、のちに『筑後洋画壇』といわれる画家たちの作品の礎を築き、以降も晩年まで図画講師を続けたと言われています。
二科展
現在では公益社団法人二科会、の正式名称となっています。元は政府が主催する官展(文展)の日本画部門が、新たな画風と伝統的な画風両方を評価するために新・旧2派に分かれていたのに対し、洋画部門にはそれがないことを不満に思った画家たちが創立したものでした。中心となったのは国費留学で絵を学んできた者たちで、そのほか坂本繁二郎や坂本と並んで「洋画界の巨匠」とされた安井曾太郎と梅原龍三郎なども創設に尽力しています。