萬鉄五郎(よろずてつごろう)
1885年に生まれ、西洋画家のマティスやゴッホなどに影響を受けた、鮮やかで独特な色遣いが特徴の画家です。
萬鉄五郎の歴史
岩手県に9人兄妹の長男として生まれた萬の実家は、当時の流通の中継地点となる土地にあり、農海産物の問屋として繁栄していました。裕福な家庭環境で育ち、幼少期から水墨画を学び、小学校を卒業しています。中学への進学は祖父の許可が下りなかったために断念しましたが、代わりに16歳から水彩画家の大下藤次郎の著書に倣い、独学で水彩画を研究し始めました。
やがて18歳の時に上京すると学校に通いながら、美術団体白馬会の第二研究所でデッサンを学びます。21歳になると、禅師の布教活動に同行してアメリカへ渡り、美術学校に通うことを目標としていましたが、当時サンフランシスコで起きた地震の影響でそれは叶いませんでした。そして1年もたたずに日本に帰国し、翌年、東京美術学校西洋画科に入学しています。
やがて22歳になると、同校の卒業制作に鮮烈な色遣いで仕上げた『裸体美人』を提出したことで、萬は画家としてデビューを果たします。黒田清輝が日本にもたらした伝統的な西洋画が広まっていた当時、それとは対照的な強烈な色遣いや独特の造形が際立つ近代絵画の影響を受けた萬の作品は、多くの人に衝撃を与え、その名を広めました。卒業後は、在学中に同級生らと組織した文芸同好会「アブサント会」や、美術家集団の「フュウザン会」に加わり、展覧会への出品を繰り返します。中でもフュウザン会は近代絵画に感化された画家たちが創設したもので、展覧会を2回開催するのみで解散してしまいましたが、萬はその後も制作活動を続けていきました。
その後故郷に戻り電灯会社の代理店業を始めましたが、そちらは妻に任せ、自身は制作活動に専念していきます。ここで描いた作品は、色の鮮やかさよりも造形にこだわったもので、題材は風景画や静物画、自画像など多岐に渡りました。その構想はのちの作品の基盤ともなり、31歳で再び上京した際の二科展出品作品は、キュビスム風の画風が反響を呼んでいます。
数年後、肺結核を発病した萬は療養のために神奈川県に移住しています。温暖な気候での生活は体調を徐々に回復させると共に、萬の画風にも伝統絵画を重んじるような変化をもたらし、37歳の時に開催した展覧会で萬は水墨画を大量に出品しています。油彩においても当初と比べて柔らかな色遣いのものが増え、同胞を集めた「春陽会」や「円鳥会」などを結成し、各展覧会への出品を続けました。42歳の時、再び体調が悪化し息を引き取った萬ですが、最晩年まで、絵筆を握っていたと言われています。