和骨董大辞典

  • TOP
  • 和骨董大辞典

藤島武二(ふじしまたけじ)

1867年に生まれ、様々な画風を使いこなした洋画家です。油彩を描いたほか、雑誌の表紙絵制作なども行い、代表作には与謝野晶子の『みだれ髪』や、『明星』の表紙絵などがあげられます。

 

 

 

藤島武二の歴史

 

江戸時代末期、鹿児島県に生まれた藤島は、8歳の時に島津藩士であった父を亡くし、母に育てられました。幼い頃から絵を好んでおり、小学校卒業後から日本画の四条派の画家に絵を学び、18歳の時には上京して同じく四条派の川端玉章に学んでいます。それから22歳までは日本画を学びいくつかの賞も受賞しましたが、もともと洋画にも興味のあった藤島は23歳の頃、洋画に転換しました。

転換後は同郷の洋画家曾山幸彦や、中丸精十郎、山本芳翠など、自身の納得のいく勉強法を求め師や画塾を点々としています。この間に当時唯一であった洋画家団体「明治美術会」の会員となり、毎年作品を出品していますが、題材には婦人像を好んで選んでいました。これは藤島が日本画を描いていたころから好んでいた題材で、作品は受賞までは至らなかったものの審査員を務めていた森鴎外に好評であったと言われています。

 

制作活動をしながら教員免許を取得した藤島は、26歳の頃から三重県に移住し約3年間教員を務めています。やがて29才になった時には、東京美術学校西洋画科の新設にあたって、黒田清輝の推薦を受け助教授に就任しました。同時に、黒田が中心であった白馬会に参加し、制作と出品を行っています。

38歳の時には、文部省の命で4年間ヨーロッパに滞在し、フランスやイタリアで国立美術学校に入学するなどして改めて西洋画の研究に励みました。帰国後はその間に制作した作品を白馬会に出品して多くの人々に影響を与え、東京大学美術学校の教授に昇進します。また、川端絵画研究所の洋画部が創設されると教鞭をとるなど、後進の育成に努めながら制作活動を続け、文展で3等を受賞後は大正博覧会や帝国美術院展覧会の審査員を歴任しました。

 

その後53歳の時にはこれらの功績が称され帝室技芸員に、56歳の時には文化勲章を授かっています。晩年には昭和天皇即位を祝う油彩画と、宮中の壁面用の作品制作の依頼から風景画の制作に没頭し、海辺や日の出を題材とした作品を残し、77歳の時、息を引き取りました。

 

 

 

カロリュス=デュラン

 

藤島武二がイタリアへ訪れた際に絵画を学んだフランス人画家です。幼少期から絵を学びはじめ、15歳になるとパリへと移り自作の絵を売りながら生活しました。同時に2つのアカデミーに通い、絵画の勉強に熱心に打ち込み、20歳の頃には故郷のリールでポートレートを得意とする画家として独立します。その後イタリアやスペインなどでも生活し各地の芸術作品に触れ、31歳で再度パリに戻ってからはパリでも1.2を争うポートレートアーティストとして再出発を切ることとなりました。以降、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールの設立やローマのフランス・アカデミーの館長を務めるなど後進の育成にも励みました。

 

 

 

買取に関するお問い合わせ

ご相談やご質問など、まずはフリーダイヤルでお気軽にお電話くださいませ。
  • お電話でのお問い合わせはこちら tel:0120-424-030
  • メールでのお問い合わせ