1887年に生まれた芸術家です。洋画と版画を制作し、特に洋画については印象派の影響を受けながらも、簡潔な線と明確な色使いで形をとらえた画風を確立しました。
小絲源太郎の歴史
明治時代中頃に料理屋の長男として生まれました。絵に興味を持ったきっかけは、17歳で中学校を卒業した頃、両親と訪れた白馬会展でした。ここで藤島武二の作品『蝶』を目にして感銘を受けた小絲は、画家になることを志します。翌年には藤島武二が教壇に立つ白馬会駒込研究所に通うようになり、デッサンと塑像を学び始めましたが、その後入学した東京美術学校では西洋画科ではなく金工科に合格し、同学科に進学することとなりました。しかし、並行して今度は白馬会菊坂研究所でデッサンを学び、絵画を描くための努力を続けたといいます。
その後23歳の時には白馬会展に3作品を出品。また、文展に出品した『魚河岸』が初入選となり、黒田清輝にも才能を認められたと同時に西洋画科への転科を勧められました。こうして翌年に金工科を卒業し、西洋画科に転入しましたが、27歳の時に体調を崩し中退しています。しかし、この在学中に小絲は個展の開催の成功、また文展に出品した作品が東京美術学校の買い上げとなるなど広く作品と名前が知れるようになっており、退学後も念願の画家として、作品を描き続けました。
以降は文展や光風会展への出品を積極的に行ったほか、個展の開催も繰り返し行い、文展・帝展・日展の審査員や大学教授を歴任しています。そのほか60代後半には日本芸術院を受賞、さらに1965年、78歳の時には文化功労者、合わせて文化勲章を受章しました。
文化功労者
文化功労者は日本の文化向上に努めた人物に贈られる称号です。文化勲章に次ぐ栄名で、選考は文化審議会によって行われています。文化功労者はこの文化審議会によって挙げられた候補者の中から文部科学大臣が決定を行い、これには国籍は関係なく、ジャンルも幅広く設けられています。
この文化功労者の制度は、日本国憲法上では「勲章」受章者に褒賞金などを支給することができなかったために「勲章」とは別制度として生まれたものでした。そのため、文化功労者の称号を与えられた人物には国から終身年金が支払われます。