小出楢重は明治中期から昭和前期にかけて活躍した洋画家です。当時は裸婦と言えばヨーロッパの女性をモデルにした作品が主流でしたが、その中で小出楢重は日本人女性をモデルに起用した、裸婦像の美しさを表現しました。
小出楢重の歴史
大阪府で有名な薬屋に長男として生まれた小出楢重は、幼い頃から絵を好んでおり、小学生の頃から日本画家の渡辺祥益に絵を教わっていました。こうして画家になることを志すようになり、両親の許しを得ると20歳で上京し、東京美術学校の西洋画科を受験しています。しかしこの時には西洋画科への入学は叶わず、一度は日本画家へ入学し、下村観山から絵の指導を受けました。
やがて西洋画科への転科が叶うと、小出は当時の流行であった激しい色使いが特徴のフォービスムや、印象派の画家たち、ゴッホやモネにならった絵画には全く傾倒せず、写実的かつ古典的な作品を描いていきます。そして東京美術学校の卒業後、32歳の時に二科展に出品した『Nの家族』が樗牛賞(ちょぎゅう)賞を。翌1920年には同展に出品した『少女お梅の像』が二科賞を受賞したことにより、自身の名を広めました。また、1919年頃からはガラス絵にも興味を持ち、収集したほか自身でも作品を手掛けています。
その後30代半ばの頃には約1年間フランスにて制作活動を行い、日本に戻った後は主に関西を中心として活躍しました。帰国した翌年は二科会員となり、さらにその翌年、仲間の画家たちと大阪府に信濃橋洋画研究所を設立し、関西画壇における後進の教育に力を注いでいます。晩年は裸体画に打ち込みましたが、1931年に息を引き取りました。
ガラス絵
ガラス絵は平らなガラスの面に絵を描き、それをガラス面の裏側から観る、絵画作品の一種です。ヨーロッパでは「グラスペインティング」などとも呼ばれ、10世紀の頃にはその先駆けとなるものがみられると言われています。やがて14世紀頃になると初歩的なものが完成し、ヨーロッパを中心に広まってゆきました。
日本にガラス絵の技法が伝わった頃には「びいどろ絵」と呼ばれており、江戸時代初期のオランダ商館からの献上品にその名が記されています。このほか中国に伝わったガラス絵も日本に輸入され、日本では18世紀後半から19世紀末まで多く制作されました。
日本で制作されたガラス絵は長崎の二大洋画家ともいわれる荒木如元や、浮世絵師の鈴木春重など当時の画家達が絵を描いており、主題には洋画風の風景や、漢画などに見られる花鳥図などが取り上げられたほか、後年には美人画や役者絵、明治期に入ると開化絵などが描かれました。