明治時代中頃から昭和末期にかけて活躍した洋画家です。はっきりとした色使いの洋画に日本の伝統的美術の要素を織り交ぜ、独自の画風を確立しました。
梅原龍三郎の歴史
京都の染物問屋の末っ子として生まれ、15歳の時に中学校を中退すると画塾にて洋画を学び始めました。この画塾は洋画家の伊藤快彦が創設したもので、梅原龍三郎はここで伊藤快彦に絵を学んだ後、18歳の時には聖護院洋画研究所にて浅井忠にも師事しています。
翌年にフランスへ渡った梅原は同じく画家の高村光太郎が使用していたアトリエを受け継ぐこととなり、パリではアカデミー・ジュリアンに通いました。また現地で目にしたルノワールの作品に感動し、のちにルノワールのもとを訪ね、指導を受けたと言われています。ブルターニュに訪れた際は現地にいた和田三造などの日本人芸術家と親交を深めながらアカデミー・ランソンでも学び、そのほかスペインを訪れた際はプラド美術館の作品を模写するなど、ヨーロッパ美術の研究に勤しみました。
滞在中は自身の制作活動にも熱心に取り組み、25歳で日本に帰国。帰ってからすぐに開催された白樺社による自身の個展では、ヨーロッパで描いた作品100点以上を展示し大きな話題を呼んでいます。以降は二科展や春陽会、また国画会の設立にも携わるなど積極的に活動したほか、並行してフランス、台湾、北京など国内外の各地へ足を運び、現地での発見を作品に活かしていきます。さらにこの間には東京美術学校の教授に就任し、1944年、56歳の時に帝室技芸員に任命されました。
60代の頃には文化勲章の受賞やヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務め、南画や琳派など日本の伝統的な要素を織り交ぜた作品の制作を行い、安井曽太郎と並んで日本の洋画壇の重鎮となっています。晩年もヨーロッパへ度々訪れながら各作品展への出品を積極的に行い、97歳で息を引き取りました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
19世紀半ばから20世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家です。日本でも人気の高い、印象派の画家達のひとりで、代表作には『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』や『ピアノに寄る少女たち』があります。
ルノワールは貧しい家に生まれ、10代の頃から聖歌隊、磁器の絵付けの職人、扇子の装飾など幅広い職を経験したのち、20歳の頃から絵を学び始めました。画塾に通い、23歳の頃からはサロン・ド・パリにて何度か入選となりますが、普仏戦争やパリ・コミューンで混乱する中で経済的にも苦しい時期が続きます。サロンでも落選を繰り返しますが、30代の頃にはモネらと共に「印象派展」を開始し話題を呼びました。これがきっかけで支援者を得たルノワールは、サロンにも復帰し再び入選。以降画風を研究しながら多くの作品を制作し、評価が高まり妻子を持ったのは50代のころでした。
晩年は南フランスで過ごし、78歳で息を引き取っています。