明治時代後半から昭和中ごろにかけて活躍した画家です。絵画の制作の他にも、版画や小説作品も知られており、版画家、随筆家としての活動も行っていました。
木村荘八の歴史
木村荘八の生家は牛鍋のチェーン店・いろは牛肉店を営んでおり、木村はこの創始者の妾の子として生まれました。東京の日本橋にあった同店の支店で誕生し、父の死後は浅草の帳場を担当していたと言われています。幼少期より兄の影響で洋書や文学書に親しんでいた木村は、小説の執筆や芝居の鑑賞などに夢中になって過ごし、18歳で中学を卒業すると、白馬会葵橋洋画研究所に通い始めました。ここで絵画について学びながら画家を志し、それをきっかけに多くの日本人洋画家と交流を深めていきます。翌年には岸田劉生と出会い、美術家集団ヒュウザン会の結成に共に尽力しました。
その後20歳になると木村は生家より独立し、洋画の制作、また美術関連の著書の翻訳と執筆を手掛けるなどしてその名を広めていきます。1915年には美術団体の草土社を岸田劉生らと創立し、それから約7年の間、毎年同会の展覧会に出品を重ねました。さらに並行して院展の洋画部や二科展にも出品し、木村が25歳の時には院展へ出した作品、『二本潅木』が高山樗牛賞を受賞しています。このような功績で注目が集まり、1922年には一般社団法人の洋画団体、春陽会の創設に客員として招かれ、同会の正会員に。やがて1936年にはその運営にも携わっています。
30代の頃には挿絵を多く手がけ、小説家の永井荷風の代表作で、当時朝日新聞で連載していた『濹東綺譚』に描いた挿絵は多くの人から反響を呼んだと言われています。そのほか時代小説として知られる『霧笛』や『花火の街』、そして『鞍馬天狗敗れず』など大佛次郎の小説作品の挿絵も多く手がけました。このような小説家以外にも、木村は俳優や俳人とも交流を持ち、様々な刺激を受け、50歳を過ぎてからも木版画作品を制作するなどしています。そのほか美術関連の著作以外に、文明開化後の時代考証を記した著作を数回にわたって出版しました。
65歳で息を引き取りましたが、亡くなったあとに出版された『東京繁昌記』は、日本芸術院恩賜賞を受賞しています。
ヒュウザン会(フュウザン会)
大正期の美術家集団です。木村荘八や岸田劉生のほかに斎藤与里や高村光太郎が中心となり1912年に結成されました。名称にある『ヒュウザン』はフランス語で木炭を意味するもので、同会は活動期間は1年に満たないものの、2回の展覧会と雑誌の刊行などの活動を行いました。
日本初の表現主義的な活動をしたとしてその名が知られており、フォービスムやポスト印象派の影響を受けたとされています。ちなみに、設立当初の名称は『ヒュウザン会』でしたが、やがて『フュウザン会』と変更されました。