1907年に生まれ、昭和時代の洋画壇で活躍しました。自身は「画家であって詩人ではない」という言葉を残していますが、その作品は詩的な情緒に溢れています。
山口薫の歴史
群馬県の旧家に生まれた山口薫は、兄が8人、姉が3人の末っ子として育ちました。幼少期から絵を描くことを好み、中学生の頃から普段の生活を自作の詩的な文章と併せて、絵日記のように綴っていたといいます。10代半ば頃からは油彩を始め、やがて17歳で高校受験に失敗したことを機に、画家を志すようになります。その後は川端画学校を経て、東京美術学校の西洋画科に進学しました。在学中はその才能を大いに発揮して特待生として認められたと共に、帝展での2年連続の入選を果たしています。
東京美術学校を卒業後、山口は23歳の時にフランスへ渡るとゴーギャンやセザンヌなどの作品から影響を受け、3年後に日本に帰国しています。ヨーロッパの前衛的な作風に刺激され、その後はフランスで交流を深めた矢橋六郎や村井正誠らと共に新時代洋画展やモダンアート協会展などの新たな美術団体を次々と創設しました。以後はこれらの団体を自身の作品の発表の場とすると共に、国内外の作品展に出品を続けています。
40代の頃からは武蔵野美術学校や東京芸術大学で後進の育成に励み、同時に、日々の生活の一コマを題材とした作品の制作に励みました。幼少期から持ち合わせていた詩情豊かな表現の才能は、故郷の自然や30代で結婚した妻との間に出来た子供たち、そして晩年を過ごした都内のアトリエでの日常をモチーフにその作品に十分に発揮されています。その作品は高く評価され、53歳の時には芸術選奨文部大臣賞を受賞し、その8年後、山口は息を引き取りました。
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン
19世紀中ごろから20世紀初頭にかけて活躍した画家です。日本では『タヒチの女たち』や『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』などの色彩豊かに自然と人々を描いた作品がよく知られています。ゴーギャンは生まれて間もなく父と祖父を亡くし、フランスで学生生活を送った後、10代で商船に乗り世界を周る水先人、20代からはフランス海軍、株式仲買人などを経験し実業家として成功していました。この間に結婚も果たし、子供にも恵まれ、趣味として20代半ばの頃から絵を描いていたと言われています。最初に親交を深めたカミーユ・ピサロをはじめとして多くの画家達と親交を深め、徐々に画業に専念していきますが、代わりに生活は苦しくなり、デンマークに戻った妻とは離れて暮らすこととなりました。
雇われ仕事をこなしながら、パリでは印象派をはじめとした国内外多くの作品から刺激を受け自身の画風を模索して行きます。やがて40代になる頃にはパナマとフランス領のマルティニークに滞在し、そこでの生活でゴッホと知り合い、しばらくの間生活を共にしました。ゴッホが病院に入った後にゴーギャンはタヒチに滞在し、現地の文化に強い興味を持ち、フランスに帰国後もそれを題材とした作品を多く手がけていきます。一時は画廊での展覧会で作品が高額で販売されましたが、成功は長くは続かず、再度タヒチに移住したゴーギャンはここで彫刻や多くの絵画を制作しながら暮らし、晩年はマルキース諸島で生活しました。そして1903年、54歳でこの世を去っています。