明治後期から昭和後期にかけて活躍した洋画家です。富士山や女性像などを主題に取り上げた作品を多く描きました。
林武の歴史
東京で生まれた林武は、国語学者の父、そして祖父や曽祖父には歌人や国学者をもつ六人兄弟の末っ子として育ちました。代々国語に深く携わってきた家系でしたが決して裕福ではなく、小学校卒業後、林武は10代半ばころから家計のために労働も行っています。そして並行して早稲田実業学校に入学して学生生活も始めましたが、この労働と学生生活の両立が負担となって体を壊し、林は同校の入学から1年たたないうちに退学することとなりました。
その後は一時期、歯科医となることを目指し東京歯科医学校の学生になり中退。また文学者をめざして牛乳・新聞の配達なども経験しています。こういった生活を続ける最中ではペンキ絵を描く仕事も行っており、徐々に絵画にも興味を持ちました。そして23歳の頃、画家になることを決心し、翌年には日本美術学校へ入学しますが、その年末には退学してしまいます。しかし、制作活動はそのあとも継続して行っており、25歳の時には二科展への出品作『夫人像』が初入選、かつ樗牛賞を受賞し、その名に注目を集めました。同年には、最期まで林武を支えた渡辺幹子との結婚も果たしています。
それから約10年の間は二科展への出品を続け、同時に小林徳三郎や萬鉄五郎らを主とする円鳥会展や、小島善太郎や前田寛治らによって結成された1930年協会展にも出品を行いました。また、30代半ばからは独立美術協会の創設に携わり、以降晩年まで同会で活動を続けていきます。
やがて、1934年にはヨーロッパへ渡り、フランス、オランダ、スペインなどをはじめとした各地を訪れ、印象派(特にポール・セザンヌ)やフォービスム、キュビスムなどの芸術作品から多くの刺激を受けました。帰国後も積極的な制作活動を行いながら、ベルナール・ビュッフェやジャン・フォートリエをはじめとした第二次世界大戦後に活躍したフランス人画家の作品に学び、人物像を多く描いています。こうして53歳の時に制作した作品『梳る女』が毎日美術賞を受賞し、以降も現代日本美術展での大衆賞、日本芸術院賞、朝日賞などを受賞しました。
また、56歳の時には東京芸術大学の教授となり自身の立場を確立し、1967年、71歳の時には文化勲章を受章しています。晩年も制作活動の他に国語問題協議会会長となるなど精力的に活動し、1975年、78歳で亡くなりました。