和骨董大辞典

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鶴岡政男(つるおかまさお)

 

明治末期から昭和末期にかけて活躍した画家です。『事ではなく物を描く』という強い意識のもとで、独自の作風を確立しました。

 

 

鶴岡政男の歴史

 

 

鶴岡政男は群馬県で建築や金物製造を行う家に生まれました。しかし幼い頃に母が父と別れ、別の男性と再婚したことで、のちに鶴岡姓となっています。10代半ばになると東京の小学校高等科を出て時計屋の奉公人となりますが、この頃に読んでいたドイツの詩人・ゲーテの叙事詩や、奉公先の正面に洋画家が住んでいたことがきっかけとなり、鶴岡政男は絵画に興味を持ち始めました。

その後母の協力もあって、洋画家の石井柏亭に絵画を学びながら室生犀星や稲垣足穂などの小説家・詩人たちの作品を読み込み、絵画、同時に詩の制作も行っていきます。15歳になると早くも太平洋画会研究所に通い、中村不折をはじめとした洋画家たちに学びながら、同時代の画家たちと親交を深めました。

 

 

しかし20代の初め頃には月謝を滞納した為に、鶴岡政男は太平洋画会研究所から除名となっています。この時に反発した者たちでのちに出来上がったのが洪原会でした。同会の発足は1929年でしたが、翌年には「発展的解散」という形で解散となり、同年新たにNOVA美術協会を結成し、展覧会を開催しています。この展覧会は第7回まで続けられますが、ちょうどその頃には特別高等警察の取り締まりが厳しくなっていたことが原因で、鶴岡が30歳の時に解散しました。

その後結婚し、直後に兵役を務めていますが、上海を訪れた際に肺結核などの病にかかり帰国。36歳になると、太平洋画会に所属していた頃に交流した井上長三郎や靉光らの画家仲間と共に新人画会を発足させています。1945年に終戦を迎える頃には空襲の影響で作品のほとんどを失ってしまってはいたものの、自身が40歳になった時に自由美術家協会に新人画会が合流し、以降の制作活動はここで行っていきました。

1953年にはサンパウロ・ビエンナーレ展に作品を出品したほか、1979年にパステル画集なども出版しています。同年、群馬県の近代美術館で開かれた個展の終了直後に、鶴岡政男は息を引き取りました。

 

 

 

井上長三郎

 

明治末期、鶴岡政男の生まれる前年でもある1906年に神戸に生まれた洋画家です。幼い頃に両親と共に移住して以来、18歳の頃までは中国で生活し、この間に絵画に興味を抱きました。

そして日本に帰国したのちは太平洋画会研究所に通って、鶴岡政男らと絵画を学び始め、まもなく20歳の時には二科展で初入選を果たしています。以降、徐々にその名を広めていき、30代の頃にはヨーロッパへ留学。約2年後には帰国し、新人画会の結成や自由美術家協会への合流に立ち合い、制作活動を行いました。個展も行ったほか、画集も出版され、1995年、89歳の時に息を引き取っています。

 

 

 

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