明治半ばから昭和末期にかけて活躍した洋画家です。女性像を得意とし、女性特有の曲線や柔らかな色合いを駆使した独特の作品を多く残しました。
東郷青児の歴史
鹿児島県に生まれた東郷青児は幼少期に一家で上京しました。その後17歳で青山学院中等部を卒業しています。在学中から絵に関心を持ち勉強もはじめ、さらに竹久夢二に憧れその自宅にも出入りしていた縁があり、卒業後の東郷は一時期、夢二の開いた日本橋の絵草紙店で下書きの手伝いなどを経験しました。その後作曲家の山田耕作と知り合い、研究所の一部の部屋を借りて制作活動を行っていきます。まもなくして、18歳の若さで早くも個展を開催した東郷青児は、この時に知り合った画家の有島生馬に改めて師事しました。翌年には二科展に出品した作品が二科賞を受賞し、注目を集めています。
1920年には結婚し、翌年からはヨーロッパに渡りました。渡欧中にはフランスの国立高等美術学校やリヨン美術学校で学んだほか、ダダイスムや未来派などの芸術運動に刺激を受けています。やがて約7年間の渡欧を終え帰国すると、東郷は滞在中に描いた20点を超える作品を二科展に出品し、1928年の第1回昭和洋画奨励賞に輝き、日本画壇に改めてその名を広めました。その翌年には多くの女性問題を引き起こし、一時はその内の一人の女性とガス自殺を図りますが救出されるなどしています。その後は離婚し、新たな妻を迎えました。
41歳の時には二科会にて、前衛団体の九室会が設立され藤田嗣治と共にその顧問となっています。戦後は二科会の再建に尽力したほか、日本芸術院の会員や二科会の会長を務めるなど、要職を歴任しています。70代の時にはフランスから芸術文化勲章を、また日本では勲二等旭日重光章を授かるなど晩年まで作品への評価は衰えませんでした。その後81歳の時、二科展に出席するための出張先で息を引き取っています。
未来派
1909年にイタリアの詩人によって『未来主義創立宣言』が発表されたことで起こった思想、または芸術運動です。当時の、産業革命ののち資本主義社会へと移り変わり、さらに科学的躍進も果たした中で、機械化に大きく影響を受けた近代社会のはやさとそれまでの芸術の破壊を表現しようとしたもので、絵画においてはあるテーマの一連の動きを、一枚のキャンバスに同時に表現する事などで速度や美しさを表しました。
美術界のほか、文学や建築、音楽などにも大きく影響を及ぼしています。