和骨董大辞典

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福沢一郎(ふくざわいちろう)

 

明治時代半ばから平成初期にかけて活躍した洋画家です。渡欧中にシュールレアリスムに強く影響を受け、日本にも広めました。

 

 

福沢一郎の歴史

 

 

 

福沢一郎は群馬県の出身で、17歳で中学を卒業すると高等学校の英法科に進学しました。その後同校を出ると20歳で東京帝国大学の文学部に入学しますが、講義には関心を持たず、大学にもほとんど通わず、一方で彫刻家の朝倉文夫に師事し、彫刻塾に入ります。それからは彫刻家となることを目指して腕を磨き、1923年に帝展に出品した『酔漢』で初入選を果たしました。さらに26歳になるとより深く彫刻についての勉強をするためにフランスへ渡っています。

 

しかしこの渡欧中にヨーロッパの伝統的な絵画作品に触れたことがきっかけとなり、福沢一郎は彫刻から絵画へと目を向けるようになりました。当初は彫刻の勉強をするはずでしたが、以降は絵画を学び、現地でのシュールレアリスム運動に強い影響を受けます。またジョルジオ・デ・キリコやマックス・エルンストなどの画家の作品も研究し、自身も絵画の制作を始めていきました。その後はフランスから日本で行われる二科展や独立美術協会展などの展覧会に参加して前衛美術作品を出品。33歳で帰国すると、まもなく日本のシュールレアリスム運動の中心的存在の1人として名を広めていきます。

 

 

やがて40代になると独立美術協会を退会し、前衛芸術家団体・美術文化協会を創設しますが、43歳の時にはその前衛的思想が危険とされ、約6ヶ月の間勾留されました。以降はその活動を制限され、終戦までは戦争協力画を描くなどの制作活動を行っています。

終戦後はアバンギャルド美術家クラブを結成。また、改めてヨーロッパへ訪れています。フランスだけでなくメキシコやブラジルなど中南米にも滞在し、ステンドグラスや壁画などの作品を見て回り、帰国後は1957年に日本国際美術展に出品した『埋葬』が日本国際美術展の最優秀賞を受賞しています。1962年には同展で国立近代美術館賞を受賞するなど日本でその功績を重ね、60代後半には3度目となる渡欧、そしてアメリカにも訪れました。

 

晩年の制作活動には磨きがかかり、1978年には文化功労者、また1991年には80歳を迎え、洋画の部門で文化勲章を受章しています。そのほか美術大学の教授なども務め、1992年、94歳で息を引き取りました。

 

 

 

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