和骨董大辞典

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牛島憲之(うしじまのりゆき)

 

明治後半に生まれ、平成初期にかけて活躍した洋画家です。あたたかな色合いと雰囲気をもった風景画を多く手がけました。

 

 

 

牛島憲之の歴史

 

1900年に熊本の地主の家に生まれた牛島憲之は、裕福な環境の中で育ちました。幼少期から絵に興味を持っており、その後19歳の時には中学校を卒業し、画家を志し上京して旧白馬会研究所でもある葵橋の洋画研究所で絵画を学びました。やがて東京美術学校の西洋画科を27歳で卒業すると、同年、帝展に出品した『赤坂並木の段』で初入選を果たしています。また、同時期に洋画家の岡田三郎助に師事しながら、東光会や、自身も創立に携わった主線美術協会、そして創元会などにも会員として参加していきました。

 

このように徐々にその名を広めていった牛島憲之でしたが本人は地位や権威に翻弄される立場を好まず、戦時中にも周囲の風潮に合わせたような、勇ましく、生々しい戦争画は制作しなかったと言われています。常に自身の画風を揺るがすことなく制作活動に励んだ牛島は、戦後、日展に出品した『炎昼』が特選を受賞しました。その数年後、49歳の時には画家仲間の須田寿と立軌会を設立しています。その後東京芸術大学の教壇に立って後進の指導に当たるようになると、芸術への研究もこれまで以上に深めていき、60代半ばの頃には教授となりました。

以降も自身の制作活動は積極的に行い、サンパウロ・ビエンナーレ展や日本国際美術展などの展覧会に出品を行っています。69歳の時には芸術選奨文部大臣賞を受賞したほか、熊本県近代文化功労者を受賞。また80代なると日本芸術院会員と文化功労者に続けて選出されました。その翌年、83歳の時には文化勲章も受賞し、やがて1997年に息を引き取っています。

 

 

 

立軌会(りゅうきかい)

 

牛島憲之をはじめとして、創元会を脱退した須田寿や榎戸庄衛、飯島一次ら7名が1949年に結成した美術団体です。所属した作家それぞれに独自の作風があり、自由な画風と当時日本では認識の薄かった「立体」に目を向け考える、という遺志からこの名が付けられたと言われています。2019年現在でも展覧会は続けられており、今年度で72回になります。

 

 

 

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