和骨董大辞典

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松本竣介(まつもとしゅんすけ)

 

1912年に生まれ、戦時下に生きながら軍の美術統制に反抗した文章を発表するなど、国内の画壇で活躍しました。

 

 

松本竣介の歴史

 

 

東京で生まれ岩手で幼少期を送った松本は、県内でも名門の中学に進学しましたが、その直後に病で聴覚を失いました。そして約1年半後、復学の際に兄から油絵道具一式を贈られたことをきっかけに、絵画に興味を持つようになります。スケッチから始まり、3年生で絵画倶楽部を自ら立ち上げると、17歳の時には中学を中退し、画家を目指して上京しました。

上京後は周囲の助けを借りながら家を借り、太平洋画会研究所(のちの太平洋美術学校)に通います。当時松本は、特徴的な女性像を描いたイタリアの画家モディリアーニの作品に心酔しており、厚塗りの画面や太い輪郭線など、自身の作品にもその作風は影響していました。やがて20歳になると兄と同居を始め、この時徴兵検査を受けましたが、聴覚を失っていたため兵役は免除となっています。

 

 

その後、兄と共に芸術雑誌『生命の藝術』の編集に携わりながら自身の創作活動も進め、24歳の時には二科展で初入選を果たしました。まもなく『生命の藝術』の編集を辞めると、今度は自身で編集した雑誌を刊行したり、この頃に出来た自身の後援会からの仕事で生計を立てています。28歳の時には二科展で特待を受け、同年に銀座の画廊で個展の開催に成功するなど、画家としての名を広めていきました。

そして同時期、雑誌「みづゑ」に掲載された軍部の要人たちによる座談会の内容「国防国家と美術~画家は何をなすべきか~」が発表されると、松本はその内容に抗議するべく同誌に「生きてゐる画家」を掲載しています。これを機に一時期松本には尾行が付いたとも言われました。

 

以後松本は同時期の画家と新たな美術団体「新人画会」の設立を行っています。しかし、まもなく内閣情報局によりこれらの団体の展覧会が中止され、団体は解散しました。その後は雑誌の挿絵や自身の作品の販売、同時期の画家たちと合同で展示会を開くなど、軍部による美術の介入に反抗しながら美術活動を続けていきます。この頃は細い輪郭線で都会的な風景を描いた作品を多く描きました。

 

やがて35歳の頃に肺炎にかかってからは、次第に病状が悪化し、体が弱っていく中でも作品の制作を続けています。亡くなる数日前まで展覧会に出品する作品の制作を行いましたが、翌年、36歳の若さで息を引き取りました。

 

 

 

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