明治末期に生まれ、昭和後期にかけて活躍した洋画家です。鮮やかな青色を使った作品が有名で、その青は「エビハラ・ブルー」の名で親しまれています。
海老原喜之助の歴史
1904年に鹿児島の海鮮問屋に生まれた海老原喜之助は、中学生の頃から画家を目指すようになり、長期休みには上京し、洋画家の有島生馬に絵を学び始めました。卒業後は学生の時から籍を置いていた川端画学校へ通い、並行してフランス語を学ぶためアテネ・フランセにも通います。そして1923年、海老原喜之助は単身でフランスへ渡りました。
現地ではパリで藤田嗣治に習い、同年に制作した作品は日本の展覧会にも出品しています。この時二科展に出品した作品は初めての入選を果たし、さらに翌年には早くもサロン・ドートンヌで入選。以降もこのサロン・ドートンヌとパリのアンデパンダン展には出品を続けていきます。こうして制作活動を続け、23歳の時にサロン・ド・レスカリエで発表した『姉妹ねむる』などの作品はフランスで海老原喜之助が洋画家として注目され始めるきっかけとなり、同年、画商との契約も決定しました。
1928年には初めての個展をニューヨークで成功させ、この頃より海老原は、フランドル地方の絵画に影響された青と白を基調とする雪原風景の作品を多く制作していきます。その後も個展や作品展への出品を行ったほか、ベルギー人女性との結婚、2人の息子の誕生も経験しますが、1934年の帰国前に離婚しました。約10年間のフランス滞在を終える頃には、雪原などを描いた作品に描きこまれた、のちに「エビハラ・ブルー」と呼ばれる青色の美しさが注目されており、海老原喜之助の才能とこの色の評判がフランスで広まっていました。
30歳の時に帰国した海老原は個展の開催を成功させ、まもなく独立美術協会の会員となるなど日本でもその作品が受け入れられていきます。戦時中は戦争画も手掛け、30代半ばには日本大学の芸術科で教壇に立ち、後進の指導にあたりました。同年に再婚もしますが、やがて1945年に九州に疎開し、しばらくは制作活動よりも各展覧会の審査員としての活動に力を注いでいます。
制作活動を再開してからは海老原美術研究所の設立やアンデパンダン展への出品、洋画家・福沢一郎との共同展の開催など積極的に活動し、各所の展覧会で連続して賞を受賞したほか、1966年よりたびたびフランスにも渡りました。国内での個展開催も頻繁に行い、壁画の制作、画集の出版などをしながら渡欧を繰り返し、ヨーロッパの各地にも訪れています。1968年には師である藤田嗣治を看取りますが、自身も翌年から体調を崩し、晩年まで筆を執っていたものの、1970年、66歳で息を引き取りました。