明治末期に生まれ、平成初頭にかけて活躍した洋画家です。同じく洋画家の三岸好太郎の妻でもあり、女性洋画家の地位の向上のため尽力したことでも知られています。
三岸節子の歴史
1905年に愛知県の地主の家に生まれた三岸節子は、小学校を卒業すると名古屋の女学校に入学しています。この在学中に先輩が日本画を描いている姿を見て絵に興味を持ち、以降、美人画を得意としていたことで名高い上村松園など女流画家の日本画の模写をするようになりました。
こうして絵にも強く興味を持った三岸節子は、女学校を卒業後、医学の道に進もうとするも受験に失敗したことで諦め、転じて、絵の道に進むことを決心します。そして洋画家の岡田三郎助に師事し始めると、岡田が教壇に立つ本郷洋画研究所に通うようになり、1922年に女子美術学校に編入しました。入学後すぐの頃は二科展でも落選となっていますが、勉強に励み、卒業の時には首席の成績を築いたほか、在学中に起こった関東大震災を機に三岸好太郎と知り合い、卒業と同年の19歳の時に結婚しています。翌年には長女を出産していますが、妊娠中にも制作を行い、翌月には春陽会展に作品を出品し、4点が入選しました。以降も子育てと並行して女流画家としての活動を行い、婦人洋画協会の創立や、春陽会への出品を繰り返し行っています。また、27歳になる頃には春陽会から独立美術協会へと発表の場を移しました。
しかし翌年の1934年に、3人の子供を抱えた状況の中で夫の三岸好太郎が息を引き取ります。三岸節子はシングルマザーとなりますがその後も職を変えたりはせず、自身の作品の制作を続けました。それまでより一層積極的に女流画家としての活動を行い始めた三岸節子は、翌年独立展にてⅮ氏賞を受賞し、自身が35歳の時には女流画家が同会の会員として認められないという規則に疑問を覚え退会。そして新制作派協会で会員となると、女性の美術教育を目的として創立された美術工芸学院で教壇に立っています。また1943年に文展や二科会などの美術団体から女流美術奉公隊が組織されると、役員に任命されました。
戦後は日動画廊にて、同画廊では戦後初の開催となる個展の主役に抜擢されています。また同時代に活躍した女流画家たちと女流画家協会を設立し、以降は同会の展覧会や新制作展を中心に出品を行いました。ここに出品した作品の中には、文部省買い上げ作品となった『金魚』や文部大臣賞を受賞した『梔子』などの代表作が挙げられ、三岸節子は女流画家として大きな注目を集めたほか、この頃からサンパウロ・ビエンナーレやサロン・ド・メ、カーネギー国際美術展など国外の展覧会にも作品を出品しており、その活動は国外にも広まっていきます。
やがて50歳を手前に初めてフランスを訪れ1年間滞在し、その風土に強く影響を受け、帰国後は風景画も多く手がけるようになりました。1965年には三岸好太郎の故郷である北海道を旅行したことをきっかけにその遺作の寄贈と美術館の設立を目指して尽力し、2年の歳月をかけて開館を実現すると、翌年に再び、フランスへと渡っています。
以降も制作活動は衰えず、日本とフランスを行き来しながら展覧会への出品や随筆の執筆なども手掛けました。最後の渡仏から帰り、1994年、89歳の時には女流画家として初めての文化功労者として認められ、5年後、息を引き取っています。