明治末期に生まれ、平成中頃にかけて活躍した洋画家です。柔らかな色使いで描く裸婦像を得意としました。
伊藤清永の歴史
1911年2月に兵庫県で生まれました。実家は禅寺で、三男であった伊藤清永は中学在学中に絵に興味を持ったと言われています。その後中学校を卒業すると、図画教師であった中学の恩師の紹介を経て、上京して洋画家の岡田三郎助に師事しながら、本郷洋画研究所で本格的に絵画を学ぶようになりました。翌年東京美術学校の西洋画科への入学を果たすと、学生時代に槐樹杜展にて出品作品が初入選、また白日会展にて白日賞、帝展の入選など短期間に受賞を重ね、早くも日本画壇でその名を広めていきます。さらに25歳になる頃には文展に『磯人』を出品し、文展監査展の特選となりました。
第二次世界大戦中は2度の招集から復員し、終戦後30代になった伊藤清永は、実家に戻り2年ほど家業を手伝い、その後は兵庫県内の高等女学校で教壇に立ち、図画を担当しています。そして同年、36歳の時に改めて絵画制作を行う意思を固めたことをきっかけに、裸婦像を主題とした作品の制作が始まりました。その後まもなく日展に出品した『I夫人像』は特選となり、なんと翌年からも3年続けて、同展の特選を受賞し、再び注目を集めていきます。40代の頃には後進のために、伊藤絵画研究所の設立や愛知学院大学の教授として尽力したほか、日展の審査員にも選ばれました。
やがて51歳の時に初めてヨーロッパを訪れた伊藤清永は、オランダとフランスに滞在し、現地でも制作活動を行っています。その際にはパリの有名な画商から長期滞在を勧められ断ったものの、ヨーロッパで培った経験は伊藤の描く裸婦像に活かされ、より華やかで女性らしさのあふれる裸婦像を描くようになりました。帰国後は1976年に日展に出品した『曙光』で、内閣総理大臣賞、そして日本芸術院賞恩賜賞を受賞したほか、同作は文化庁の買い上げ作品にもなっています。以降も日展理事や白日会会長、文化功労者など要職を歴任し、1996年には85歳で文化勲章を受章しました。
晩年まで個展の開催等を多数行い、2001年、90歳で息を引き取っています。
白日会
1924年に洋画家の中沢弘光らによって創立された美術団体です。会名は中沢がインド洋で見た美しい景色“白日にかがやく太陽”から来ており、創立以来、「白日会展」の開催が主な活動となっています。活動は2019年現在も続けられ、日本各地に支部が置かれています。