江戸時代、1860年代前半に生まれ、昭和前期にかけて活躍しました。画家としての功績以外にも、美術教育家としても大きな功績を残しています。
松岡寿の歴史
岡山県の藩士のもとに次男として生まれた松岡寿は、11歳の時に父と共に東京に移住しています。もともと父が洋学研究の先駆けとして活動していた影響もあり、上京すると洋風画家の川上冬崖が開いた画塾、聴香読画館でフランス人のアベル・ゲリノーから西洋画の技法や図学を学び始めました。その後1876年には工部美術学校に進学。ここではイタリア人のアントニオ・フォンタネージに学びますが、のちにその後任となった教師に満足がいかなかったことをきっかけに、松岡寿は工部美術学校を退学して仲間たちと十一会を設立しています。以降は同会で自身の技術を高めるべく努力を重ね、18歳の時、イタリアに渡りました。
現地ではイタリア人画家のチェザーレ・マッカーリに教えを受けたのちに、チェザーレが名誉教授を務めていた国立ローマ美術学校へ入学を果たすと、ここで4年に渡って美術を学んでいます。また卒業後はパリにも訪れ、約1年間の滞在後に日本に帰国しました。ヨーロッパから帰った松岡寿は、画家仲間たちと明治美術会の創設に携わり西洋美術の普及に務めたほか、自身の制作した作品を同展覧会で発表していきます。また28歳の頃に内国勧業博覧会に出品してからはしばしば各展の監査や審査員を務め、さらに30歳になる頃には明治美術学校の設立と運営、そして指導に打ち込みました。
芸術家だけでなく教育者としての名も高めた松岡寿は国にも認められ、1907年には文展の審査員、それから5年後には国民美術協会の理事や農商務省にて農展の開設とその審査員も務めています。また母校である東京高等工業学校の教授や校長、さらに1918年の大阪公会堂や1928年の明治神宮絵画館の壁画制作を務めるなどし、1944年、83歳で息を引き取りました。
明治美術会(めいじびじゅつかい)
日本で初めての洋風美術団体と言われています。設立のきっかけは明治時代半ばの国粋主義の台頭でした。国立の西洋美術教育機関として初めて設立された工部美術学校が廃校となったのち、1889年に改めて東京美術学校が開かれましたが、同校には国粋主義の影響で西洋美術が組み込まれておらず、これを受けた松岡寿をはじめとする、80名にのぼる西洋画家たちによって発足したのが明治美術会です。
主に展覧会の開催を行う中で、1893年に黒田清輝が加わり、のちにこの黒田が明治美術会を脱退後、東京美術学校の西洋画科設置を果たしました。以降徐々に勢力を失っていった明治美術会は1901年には解散となり、そのうちの一部の芸術家たちは太平洋画会を設立しています。