明治前期から、昭和前期にかけて活躍しました。画家や彫刻家として以外にも、詩作や歌、また随筆や評論の分野でも才能も発揮しています。
高村光太郎の歴史
1883年に東京都で生まれた高村光太郎は、父であり彫刻家の高村光雲に影響されたこともあり、14歳の時に東京美術学校の彫刻科に入学しました。在学中には文学にも興味を持ち、与謝野鉄幹が結成した新詩社に入ったり、文芸誌の「明星」に自身のつくった短歌を投稿するなどしています。その後高村光太郎は彫刻科を卒業するとそのまま同校の研究科に進みますが、それから3年後には西洋画科に転科。そしてまもなく、翌年からはアメリカやヨーロッパへの留学に出発しました。
ちなみにこの留学資金は父の高村光雲から得たもので、東京美術学校の教授であった岩村透から勧められ、留学に至ったと言われています。
1906年に出発してから高村光太郎は、アメリカのニューヨーク、そしてヨーロッパではイギリスにフランスと、3ヶ国でそれぞれ1年と数ヶ月ずつ滞在し、各地で腕を磨きました。中でもアメリカでは日本とは異なる派手な街並みの中で戸惑いながらも、メトロポリタン美術館で目にしたガットソン・ボーグラムの彫刻作品に強い衝撃を受けて直接連絡を取り、昼は彼の助手として働き、夜は美術学校の夜間部に通うという生活を続けたと言われています。ヨーロッパでの経験も経て1909年に帰国した高村光太郎は、当時の日本の美術の在り方に満足できず、父にも反発し母校の教職の話も断り、文芸雑誌に美術評論を載せるようになりました。また30歳頃になると自身のアトリエを構えて作品制作を行うようになり、洋画家の岸田劉生らと共に設立したヒュウザン会に油彩画を出品したほか詩集の出版や翻訳、さらに塑像の制作は特に頻繁に行っています。その間には1914年に結婚も果たしていますが、妻の死によって結婚生活は24年で幕を閉じました。
妻の死後、55歳となった高村光太郎は、一時は1941年の真珠湾攻撃を境に戦争に協力的な内容の詩を多く制作しますが、自身も空襲により被災して作品の多くを失い、疎開を余儀なくされるとその行動を恥じ、終戦後しばらくは岩手県の小さな小屋で独居生活を送っています。東京からは一時離れた高村光太郎でしたが、疎開する前には自作の詩で帝国芸術院賞を受賞するなどしており、独居生活を終えた後も、その間に制作した詩を集めて発表した詩集が1951年の読売文学賞を受賞するなど、この時にはすでに詩人として広く名を知られていました。以降も晩年まで、東京のアトリエで詩作のほか塑像の作成など多方面で才能を発揮し、1956年、73歳で息を引き取っています。