江戸時代末ごろに生まれ、昭和前期にかけて画家として活躍しました。キリスト教徒であり、「イリナ」という洗礼名を持つため、「イリナ山下りん」の名前でも知られています。
山下りんの歴史
1857年に茨城県の笠間藩士のもとに生まれた山下りんは、裕福ではない家庭で育ちましたが幼い頃から勉学に励み、また一方で絵にも深い興味を持っていました。しかし、当時周囲には絵を指導できるほどの人物がおらず、山下りんは10代中頃になると絵の勉強をするため家出することを決意します。一時は失敗に終わりますが翌年、家族を説得し上京。江戸で浮世絵師の豊原国周や、画家の中丸精十郎から伝統的な日本画を学び、20歳の時には工部美術学校に入学を果たしていました。
同校ではアントニオ・フォンタネージをはじめとする教師陣から洋画についての指導を受けたほか、当時同級生であった友人の影響を受けてロシア正教に改宗し、これをきっかけにニコライ神父と出会っています。ロシアから来日していたニコライ神父はロシア正教を広める為、日本に協会を建てようと活動していましたが、同時に、キリストや聖人たちを教会内に描く画家を探しており、この出会いをきっかけに、山下りんはロシアへ渡り、現地でイコンの作画技法や決まりを学ぶ機会を得ることとなりました。
こうして1880年に工部美術学校を退学すると、山下りんはサンクトペテルブルクに向かい、現地では女子修道院でイコンの作画技法を学んでいきます。またエルミタージュ美術館に訪れた際に目にしたイタリア絵画からは大きな影響を受け、その遠近法や豊かな表現力を習得しようと模写を繰り返しました。一時はイコンよりもイタリア絵画に強い興味を向け、修道院からも美術館へ行くことを禁止されるほどでしたが、5年の予定の留学を2年で切り上げて日本に戻った山下りんは、帰国後しばらくは神田の日本正教会内に設けられたアトリエでイコン製作に打ち込んでいきます。その後も20年以上の間、関東を中心に東北地方や北海道の各地に聖像を描きましたが、イコンは原則として署名を行わないものということもあり、山下りんの署名がされたイコンは現存していないと言われています。これまでの研究で300以上の作品は認められているものの、長きにわたって外界とほとんど交流せずに作品制作に打ち込んだ山下りんは、60代で地元に戻ってからは絵筆をとらず、1939年に81歳で息を引き取りました。
イコン
イエス・キリストや聖人たち、また天使や、聖書に書かれた出来事を描いたもののことを言います。発音や宗教によっては「エイコーン」や「聖像」とも呼ばれますが、「イコン」の呼び名で呼ばれるのは特に正教会が多いです。
正教でこのイコンの多くは板絵やフレスコ画、モザイク画や本の挿絵など平面に描かれることが多く、正教徒はここに描かれた原像を信仰している、という認識が一般的です。また、山下りんのように、イコン製作者は正教の決まりに沿った生活を送るのが常識とされており、作画における日々の修練も修行の一環ととらえられています。