和骨董大辞典

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中原悌二郎(なかはらていじろう)

 

明治時代半ばに生まれ、大正時代末期にかけて活躍した彫刻家です。30代前半で亡くなっていますが、高い評価を受ける素晴らしい作品を遺しています。

 

 

中原悌二郎の歴史

 

1888年、北海道・釧路の小売業を営む家で生まれた中原悌二郎は、厳しい父と兄の下で育ちました。しかし、これに馴染めなかった悌二郎は9歳の時に同じく北海道で、旭川に暮らしていた叔父の元へ移り、養子となって小学校も転校。実家では兄弟が多かったためなかなか甘えることもできなかった中原悌二郎でしたが、ここで養子となったことをきっかけに一人っ子となり、以降は自然の中でのびのびと育ちながら、養家の両親の熱心な指導もあり落第ばかりだった成績も学年で首位の成績を収めるようになっていきます。在学中は文武共に優れ、武者絵を描いたり、生徒たちを代表して歌を披露するなどし、1902年には当時道内でも難関校として有名であった中学校に進学を果たしました。

 

その後中学で美術教師に強い影響を受け、徐々に画家になる意思を強めていた中原悌二郎は3年生の時に落第したこともあって、当時17歳で上京することを決意します。東京では貧しい生活が続きましたが、白馬会洋画研究所に通いながら素描などをはじめとした絵の勉強を熱心に続け、翌年には太平洋画会研究所に移籍。この間には白馬会研究所にてのちに洋画家となる中村彝と出会い、親睦を深めました。また1908年、中原悌二郎は中村彝と共に荻原守衛に出会っています。彫刻と絵画の両方を手掛けた荻原守衛を幾度も訪ねるうちに、彫刻への興味を膨らませていった中原悌二郎は、その後自身も彫刻家となることを決心しました。

 

20代前半の頃に改めて太平洋画会研究所の彫刻部に入り、彫刻作品の制作を始めた中原悌二郎は、憧れていたロダンの影響もあり当初は素朴な作品が多く、高い評価を受けるようになるまでには時間がかかったと言われています。それでも制作活動を続け、1910年の文展に出品した作品が初入選となり、以降もロダンの作品研究と並行しながら彫刻に打ち込んでいきました。28歳の時には日本美術院の研究会員なども経験し、同年院展で樗牛賞を受賞。その後も代表作となる『若きカフカス人』などを発表し、芥川龍之介をはじめとする芸術家たちから高い評価を受けていきます。自身の納得のいかない作品は壊してしまうという厳格さのもと、晩年まで制作活動を行い、『平櫛田中像』を遺作にして、1921年、32歳で息を引き取りました。

 

 

 

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