昭和初期に生まれ、平成末ごろにかけて活躍した日本画家です。
風景画を得意とし、日本自然や寺院を描いた作品のほか、中国の景色を描いた作品も制作しています。
後藤純男の歴史
1930年に、千葉県の真言宗の寺院の住職の子として生まれた後藤純男は、幼少期に埼玉県に転居し、以降10代の中頃までは埼玉県で生活しました。小学生の頃から絵を描くことを好んでおり、中学生の頃には僧になる為の修行を行う一方で、画家となる志も高めていきます。そして15歳の時に転校したことを機に美術部に入部し、部活の顧問や近くに住む日本画家の伊藤青郊に絵を学び、翌年卒業。進学先には東京美術学校を希望していましたが、受験に失敗し、伊藤青郊との縁で紹介された日本画家の山本丘人に師事を始めました。進学を断念したのちは中学校で教壇に立つようになりますが、1949年頃には教員職をしながら日本美術院で活躍していた田中青坪にも絵を習い、翌年日本美術院の小品展で初入選を果たしています。対して院展ではその後もしばらく評価されない期間が続きますが、2年後の秋、22歳の時に院展での初入選を遂げ、これをきっかけに教員職を辞め画家としての活動に専念するようになりました。
以降、制作活動に打ち込んだ後藤純男は、自身の暮らしの中にある風景を描いた作品で日本美術院小品展の奨励賞をたびたび受賞したほか、1955年からは関西地方と北海道の各地に、繰り返しスケッチをしに向かっています。30代になると結婚し、院展でも奨励賞の受賞を繰り返し、1965年には日本美術院賞を受賞してその名を広めていきました。春季展への出品も行い、1976年には院展で文部大臣賞を受賞。同年、個展の開催も成功させています。
やがて文化交流の促進のため中国で開催した現代日本絵画展の代表の1人として中国に訪れる機会を得ると、1979年の夏以降、頻繁に中国に通うようになり、現地で見た風景を自身の作品に活かしていきました。52歳の時には中国でもその才能が認められ、西安美術学院の名誉教授となり、続けて1986年に江南省の風景を描いた作品を院展に出品し、内閣総理大臣賞を獲得しています。翌年には福岡の大学で美術の非常勤講師を務め、のちに東京藝術大学でもる教授となるなど後進の教育にも尽くしました。
50代後半の頃からは真言宗などの寺院の襖絵の制作を多く手がけるようになり、高野山真言宗東京別院や奈良の長谷寺、東京の高幡不動尊金剛寺にその作品が収められたほか、1995年にはフランスでの個展を開催し、成功しています。2000年になると埼玉県の名誉町民賞や北海道の社会貢献賞、その後も旭日小綬章や千葉県の名誉市民となるなど晩年まで幅広い活動をこなし、2016年、86歳でこの世を去りました。