和骨董大辞典

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横山操(よこやまみさお)

 

大正中期に生まれ、昭和後期にかけて活躍した日本画家です。

風景画を中心に描きましたが、西洋画ともとれるような荒々しく力強い、黒色を多用した風景画も描き話題を呼びました。

 

 

横山操の歴史

 

横山操は1920年に新潟県で私生児として生まれましたが、まもなく横山家に養子として入り、高校までは地元で学生生活を送りました。その後14歳で画家になることを目指すようになると、上京して美術団体の光風会会員であった石川雅山に師事しながら洋画を学び始めます。ポスターや看板制作で生計を立てていき、18歳の時には光風会展に出品した油彩画が入選となりますが、まもなく師の石川の勧めを受けて洋画から日本画へと転向。翌年から川端画学校に進学して夜間に日本画を学ぶようになりました。こうして日本画家への道を歩み始めた翌年、1940年に横山操は川端龍子率いる美術団体・青龍社の展覧会に出品し、早くも初入選を果たしています。

 

若くして才能を発揮した横山操でしたが、青龍展で入選したのと同年、第二次世界大戦の影響を受けて20歳で徴兵され、その後10年もの間、一時は兵として、そして終戦後はシベリア抑留による強制労働員として扱われることとなりました。この経験は横山操のその後の作品にも大きく影響し、1950年に帰国し、制作活動を再開させると、強制労働中に行った石炭採掘の際の風景を描いたものや、滞在した先のカザフスタンの人々を描いた作品を制作しています。

 

やがて戦前と同様に日本の風景画の制作に戻った横山操は、青龍社を中心として作品の発表を行っていきました。20代の10年間のブランクがありましたが、1953年から11回連続で賞を受賞し、また1956年には銀座で個展の開催を成功させるなど、ブランクを感じさせない才能を見せていきます。個展を開催した同年には代表作のひとつでもある、『炎炎桜島』で青龍賞を受賞したほか、翌年には3メートル以上におよぶ大作を制作。また現代日本美術展など青龍社以外の場にも招待を受けるようになり、40代に入ると代表作『赤富士』を連作として制作し、人々の注目を集めました。

 

以降も積極的な制作活動を行い、1962年には新たな日本画の作風確立を目指して青龍社を脱退。翌年からは独自に“個展”として作品の発表を行っていきます。46歳の時には多摩美術大学の日本画科で教授を務めるようになり、多くの後進を指導しますが、1971年に脳卒中をおこし右半身が不随となっても制作活動を続けていました。晩年まで作品を制作し続け、1973年、53歳で息を引き取っています。

 

 

 

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