和骨董大辞典

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吉原治良(よしはらじろう)

 

明治末期に生まれ、昭和後半に活躍した洋画家です。

抽象画の画家として知られますが、国内外の展覧会の他にも、舞台装置やパッケージデザインにも携わるなど多岐に渡って活躍しました。

 

 

吉原治良の歴史

 

1905年に大阪の老舗油問屋で生まれた吉原治郎は、中学生の頃にはすでに絵画に強い関心を持っており、独学で油彩画を学んでいました。特にこの頃はルノワールやゴッホなどの印象派の絵画作品からよく影響を受けていたと言われています。卒業後は関西学院高等商業部へ進学し、在学中に美術団体などに所属して学生美術展に作品を出品するなどし、専攻科卒業直後、24歳の時には大阪で個展の開催を行いました。これと同時に父の持つ製油会社に勤務し始め、並行して絵画制作にも打ち込んでいきます。また同じ頃にフランスから戻った洋画家の上山二郎や藤田嗣治らと知り合い刺激を受けたと共に、彼らの勧めもあって二科展に作品を出品するようになりました。1964年の同展で入選し、さらに銀座で開催した個展でも成功を収めるなど、徐々にその存在感を知らしめていきます。翌年の二科展では特待に、さらに翌年には会友として推薦されると共に、藤田嗣治らと前衛美術団体の九室会の創設に携わるなどしました。

 

 

戦時中は前衛的な作品は控えられますが、制作活動は続き、二科展への出品も続いています。戦後には会員として二科会の再建に加わったほか、のちにJオイルミルズとなる自社の社長も兼業しながら、海外ファッションショーの舞台装置の制作などに力を注ぎました。40代後半からは国内外の展覧会に多数出品するようになり、現代日本美術展や日本国際美術展、そして日米21人展やサンフランシスコのカーネギー国際美術展、フランスのサロン・ド・メで作品を発表。また1951年には東郷青児と共に兵庫で作品展を行い、大阪府芸術賞を受賞しています。

その後、嶋本昭三や正延正俊などと共に具体美術協会を設立し、作品展の開催など、若手作家たちと共に活動を始めると、美術評論家のミシェル・タピエの注目をひき話題を集めました。より精力的に活動し、野外での展示や大規模の作品展、また前衛美術作品のみの表現にとどまらず、モダンダンスや音楽と融合した公演の企画も行っていきます。

 

自身の作品発表も含めたこれらの活動で数々の賞を受賞したほか、64歳の時には日本万国博美術展展示委員なども務めるなど晩年まで活躍し、1972年、67歳で息を引き取りました。

 

 

 

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