和骨董大辞典

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駒井哲郎(こまいてつろう)

 

大正時代半ばに生まれ、昭和後期にかけて活躍した版画家です。

エッチングと呼ばれる銅版画技法を得意とし、抽象的な雰囲気の作品と、一方で写実的な表現も交えた作品も制作しました。

 

 

駒井哲郎の歴史

 

1920年に東京都で製氷業者をしていた父のもとに生まれた駒井哲郎は、慶應義塾の幼稚舎から普通部に進学しています。在学中は図画教師に美術を学んだほかに、日曜日には当時日本エッチング研究所を開いていた、版画家の西田武雄にエッチング技法の指導を受け、彼の出版した雑誌『エッチング』を愛読しました。この『エッチング』は西田武雄が日本に銅版画を広めることを目的に出版したもので、ここに載っていたジャン=フランソワ・ミレーの版画作品に、駒井哲郎は強い影響を受けたと言われています。こうして慶応義塾普通部を卒業したのちは、18歳で東京美術学校の油画科に入り、1941年の文展では銅版画を出品して入選。戦時中であったため繰り上げの卒業となりましたが、1942年の秋口には同校を卒業しました。

 

卒業し、疎開先に落ち着いてからは油彩画や銅版画を制作し、間もなく東京に戻ると、日本版画協会展に出品した作品が入選したことがきっかけとなり、審査員の注目を集めていきます。1950年には春陽会で春陽会賞を受賞し、翌年は会員、またサンパウロ・ビエンナーレで聖日本人賞、さらに翌年にスイスの国際版画ビエンナーレで国際次賞を獲得するなど国内外で活躍していきました。そして33歳で初の個展も成功させると、1954年からはフランスへと渡ります。

2年の滞在期間で、現地では版画家の長谷川潔のもとに訪れたほか、版画展を鑑賞したり、国立美術学校にてビュランという版画技法を学ぶなどして過ごしました。帰国前にはドイツの美術館で行われた“パリの日本人画家展”やスロベニアのリュブリャナ国際版画ビエンナーレに作品を出品し、1955年の年末に日本に戻っています。

 

その後はビュランの技法は用いず、もとの銅版画作品を中心とした作品制作を行いました。展覧会への出品も積極的に行い、1959年の日本国際美術展ではブリヂストン美術館賞を受賞したほか、詩画集を多く出版。これには同じ紙に版画と文字を一緒に入れ込むという表現が取り入れられ、日本の美術界でも新しい技法として注目を集めたと言われています。またこの間には繰り返し個展を行い、フィレンツェ美術アカデミア名誉会員や、東京芸術大学・多摩美術大学の講師など要職を歴任したほか、40代後半には舞台装置やその衣装の制作に携わるなど、幅広く活躍しました。52歳の時には東京芸術大学の教授にもなり、並行して晩年まで個展の開催も続けていましたが、1976年、56歳で息を引き取っています。

 

 

 

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