和骨董大辞典

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河井寛次郎(かわいかんじろう)

 

明治半ばに生まれ、昭和後半にかけて活躍した陶芸家です。

自身の作品制作における国内外での功績はもちろん、日用品に宿る美に焦点を当てた民芸運動にも携わったことで知られています。

 

 

河井寛次郎の歴史

 

1890年に島根県で生まれた河井寛次郎は、大工を務める父を持ち、中学校卒業までの間、同県で育ちました。その後上京し、現在の東京工業大学の前身である東京高等工業学校に進学。在学中は窯業科に所属し、陶芸家の板谷波山に学びました。窯業の研究にも打ち込み、また入学した翌年には日本で行われていたバーナード・リーチ展で感銘を受け、彼の家に訪ねて行くなどして親交を持ったと言われています。

24歳で同校を卒業したのちは、京都の陶磁器試験場に入り、研究と制作に励んでいきました。翌年にのちに陶芸家となる浜田庄司も入所すると、共に中国の昔の陶磁器や、1,000種を超える釉薬の研究に没頭していきます。しかし約3年務めたのちには退職し、同年、京都の清水焼の5代目にあたる陶工・清水六兵衛に技術的な指導を行い始めます。ここでいくつかの釉薬の発明も行うと、間もなくして浜田庄司と共に九州、沖縄、中国の各所へ渡り、各地の窯をみてまわりました。

 

帰国後は以前顧問を務めた清水六兵衛との縁で京都の窯を譲り受け、“鐘渓窯”と名付けると、本格的に自身の作品制作を始めていきました。30代になると、百貨店の高島屋で宣伝部長を務めていた者と親交を深め、これをきっかけに1921年、東京と大阪の同店にて展覧会を行うこととなります。ここが初めての自身の作品発表の場となり、それまで研究してきた釉薬や中国古代の陶磁器の技法を駆使した華やかな作品群は、若手であった河井寛次郎の名を広めていきました。

しかし間もなくして、柳宗悦の主催した朝鮮の陶磁器の展覧会を訪れると、大きな華々しさはないものの、著名ではない作家のつくる素朴な作品に感動を覚え、自身の作品制作に疑問を持ち始めたと言われています。そして34歳の時には、浜田庄司がヨーロッパから持ち帰った古い時代の実用的な陶磁器を目にし、柳宗悦の民芸理論に共感。以降は日用品の中にある美を見つめ、広めていくため民芸運動を行っていきました。

 

昭和初期頃から始まったこの活動では、河井寛次郎、柳宗悦、浜田庄司の三人、またのちにはバーナード・リーチ、富本憲吉なども合わさり、古くからある日用品の良さを見直し、その制作のための技術復興、そして完成品の普及などを行っていきます。自身の作品制作も再開し、各所で展覧会などを行ったほか、1937年にはパリ万博でグランプリを獲得するなどしました。

第二次世界大戦後は木彫作品も作るようになり、フランスの陶器の展覧会やイタリアのトリエンナーレでもグランプリを得るなど、国内外に活躍の幅を広めていきます。また釉薬と筆を使った作風を確立し、文化勲章や人間国宝への推挙を受けますが、全て辞退し、晩年まで個展、あるいは仲間たちとの展覧会の開催を精力的に行いました。

 

そして1966年、76歳で息を引き取っています。

 

 

 

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