明治後半に生まれ、昭和末期にかけて活躍した陶芸家です。
人間国宝、そして文化勲章受章者の1人としても名高く、血縁者では子供、そして孫の世代も陶芸家として活躍しています。
濱田庄司の歴史
1894年に神奈川県で生まれた濱田庄司は、東京で通った中学在学中から工芸に興味を持ち始め、陶芸家の板谷波山に憧れていました。そのため進学先は当時板谷波山が教壇に立っていた東京高等工芸学校の窯芸科に決め、19歳の時に同校に入学すると、板谷波山の下で基礎的な指導を受けていきます。22歳で卒業したのちは、在学中に慕った先輩である河井寛次郎を追って京都陶磁器試験場へ入り、釉薬についての研究に没頭しました。
一方で、同時期には富本憲吉やバーナード・リーチと知り合い、彼らと共に沖縄や朝鮮を旅したことで作陶への理解を深めていきます。20代半ばの頃には、母国であるイギリスに帰郷するバーナード・リーチに同行してイギリスに渡り、現地の陶芸家の協力を得ながら自身も作品制作に励みました。そして約3年後、1923年にはロンドンにて個展を開催するほどとなっています。
翌年にはフランスやエジプトなどに立ち寄りながら帰国。その後は結婚し、一時は沖縄で壺屋焼の制作について学んでいます。そして引き続き日本各地の民芸品の調査や2度目となるイギリス滞在を終えたのち、30代半ばの頃になると栃木県に移住しました。ここで登窯を築き、素朴な形状に釉薬の流れを活かしたデザインの作品を次々と作り上げていきます。以降も自身の作品制作と並行しながら民芸運動も積極的に行っていき、月刊誌に工芸に関する記事をあげるようにもなりました。特に沖縄の壺屋窯と朝鮮で作られた陶器への関心は高く、数回に渡って現地に赴き、収集と撮影を繰り返したと言われています。この間には日本各地で個展の開催を行ったほか、1936年の日本民芸館の開館後は同施設の理事を任されました。
その後、50代の頃には益子に訪れた天皇陛下に、栃木県で制作された作品をご紹介し、文化使節の一員、または講演会開催を目的としてヨーロッパやアメリカにも渡っています。帰国後もバーナード・リーチや柳宗悦、河井寛次郎らと共に共書のための打ち合わせを頻繁に行い、また三人展や四人展などの展覧会も開催。1955年にはこれらの功績が認められ、61歳で重要無形文化財保持者、人間国宝に選ばれました。
晩年まで積極的に個展を開催したほか、作品集の出版や日本民芸館の館長就任、さらには日本とアメリカの文化教育会議に出席するなど要職を歴任していきます。日本だけでなく世界各地での講演会や個展、そして大阪万博での日本民芸館館長も務め、1978年、83歳で息を引き取りました。