昭和前期に生まれ、平成後期にかけて活躍した芸術家です。
前衛美術的な作品を作り出すだけでなく、作家や漫画家としても作品を残しており、幅広い分野で活躍しました。
赤瀬川原平の歴史
1937年に神奈川県で生まれた赤瀬川原平は、当時サラリーマンをしていた父のもとに生まれ、母と6人兄妹のなかで育ちました。神奈川から兵庫、九州と転居の多い幼少期でしたが、兄妹揃って芸術への関心が強く、のちに兄は作家となり直木賞を受賞。また姉は帽子作家、姪は小説家となっています。4歳頃から中学時代までを過ごした大分県では、小学校でのちに赤瀬川原平と同じく前衛画家となる雪野恭弘に知り合い、また中学校では兄の同級生でありのちに建築家となった磯崎新に勧められ、磯崎の設立した絵画同好会に雪野と共に参加しました。ここで赤瀬川原平は強く影響を受け、高校入学後すぐに家族で引っ越したこともきっかけとなり、愛媛県の高校の美術科に進学。在学中は油彩画を学び、18歳の時に武蔵野美術学校に進学しています。
しかし、仕送りが途絶え自身のアルバイトでも学費をまかなうことが出来なくなり、数年後に同校を退学すると、読売アンデパンダン展などの展覧会に作品を出品するようになっていきます。20代前半の頃には渋谷の喫茶店で初めての個展を開催するなどしますが、一時は体調を崩して愛知県にて手術を受けるなどしました。その後1960年には吉村益信や荒川修作、篠原有司男などをはじめとする当時の若手芸術家たちと共に、前衛芸術団体のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを設立。グループとしての活動期間は約半年間でしたが、展覧会の開催や積極的な活動は世間の注目を集めました。
解散後はまもなくして、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの活動で知り合った芸術家の高松次郎らと共に、赤い感嘆符をシンボルとした前衛芸術団体、ハイレッド・センターを組織しています。グループ音楽に携わる者や、雑誌の編集者、映画作家などを非公式に迎えた活動で、独特なパフォーマンスを行っていきました。赤瀬川原平のパフォーマンスの中でも話題となったのは、当時の千円札を拡大して自筆で写した作品や、表面を一色でコピーしそこに加工をした作品で、これらの作品は貨幣の模造取締法の違反だとして起訴されています。同時期に活躍した多くの芸術家たちが赤瀬川原平を擁護しましたが、1970年に有罪が確定し、以降、赤瀬川原平は前衛美術作品の積極的な制作と発表からは距離を置くようになりました。
しかし、芸術活動はその後、より幅広い分野で続けられ、30代の頃には漫画の出版、また美学校の講師なども務めるようになります。1978年には初の小説を出版し、翌年中央公論新人賞を受賞、さらに2年後には前年に発表された作品で芥川賞を受賞しました。以降も後進の指導を続けながら執筆活動も行っていき、1998年に発表した『老人力』は、赤瀬川原平の著作の中で最も著名なものとなったほか、流行語大賞も獲得しています。
前衛美術からは身を引いたものの、精力的な創作活動を続け、2014年、77歳で息を引き取りました。