和骨董大辞典

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菊池容斎(きくちようさい)

菊池容斎は江戸時代後期、天明に生まれ、明治にかけて活躍した画家です。

“菊池容斎”は号のひとつで、その他に“雲水无尽庵”などの号も使用していたとされています。

 

 

菊池容斎の歴史

 

 

1788年に江戸に暮らしていた下級武士の子として生まれ、量平と名付けられた菊池容斎は、当時は母の生家・河原家の姓がついていました。これは菊池姓であった父が母の生家・河原家に婿入りした為で、菊池容斎はのちに10代半ばで河原家を継ぐこととなっています。

幼少期から絵を描くことに興味があった菊池容斎でしたが、父の方針でそれを学ぶことは出来ず、河原家を継いで間もない16歳の時に、自身で描いた両親の肖像画を見せたことがきっかけとなり、ようやく絵を学ぶ許可をもらいました。こうして翌年からは武士としての仕事をこなす傍らで絵師の高田円乗に師事し始め、狩野派などを中心とした画法を学んでいきます。師が亡くなった後は狩野派の画法を守り保っていくことよりも、各流派の長所を研究しそれを取り入れ、上級武士に財政的なサポートを受けながら大型の作品なども制作しました。

 

その後30代後半の頃になると、父の生家の菊池家が断絶の危機にあることを知り、河原家を妹夫婦に託し、自ら菊池家の養子となっています。この頃から、量平と名乗っていた容斎は“菊池容斎”となり、職の方も、絵師として本腰を入れるようになりました。以降は絵の各流派の作品や浮世絵について学んだほか、昔から伝わる法令などを意味する有職故実の研究に尽力。その成果として、菊池容斎の代表作『前賢故実』が1868年に発表されています。これは伝説上の人物ともいわれる神武天皇の頃から室町時代初期にかけて活躍した、日本史上の偉人500人を、その人物の絵に伝記、あるいは詩歌を合わせて紹介した著書です。発行は10巻にも及び、これが明治天皇の目にとまると、菊池容斎は天皇から“日本画師”と称されるようにもなりました。

やがて80代には『土佐日記絵巻』の続編の制作、また最晩年、亡くなる前年には内国勧業博覧会で発表した作品が、同会で最高賞となる竜紋褒賞を受けています。そして1878年に息を引き取ったのちも、『前賢故実』は容斎の孫による説明を加えた全11巻となって1903年に新たに発表され、歴史画の原点のひとつとして、あるいは芸術家たちの参考書として幅広い分野の人々に大きな影響を与えました。

 

ちなみに、菊池容斎の指導した者としては、のちに約300人の門下生を育てた松本楓湖や、西洋の絵画表現を作品に取り入れた日本画家の渡辺省亭などが知られています。

 

 

 

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