和骨董大辞典

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下村観山(しもむらかんざん)

 

明治初期に生まれ、昭和初期にかけて活躍した画家です。

日本画家に指導を受け、東京美術学校の第一期生となったのち、帝室技芸員として認められました。

 

 

下村観山の歴史

 

 

1873年に和歌山県で生まれた下村観山は、能楽師の父を持ち、家はその技術で紀州の徳川家に仕えていました。能楽師の中でも、小鼓の一派に属していましたが、下村観山が10代になる前に一家で上京すると、父は能楽師から彫刻品などによる輸出業を開始。一方で当時9歳だった下村観山は、祖父の知人で金工を職にしていた藤島常興(つねおき)に絵の指導を受けるようになり、そののちには狩野派の日本画家、狩野芳崖の元で学んでいきます。徐々にその才能を表し始めると、13歳頃には狩野芳崖から紹介を受けた日本画家、橋本雅邦に師事し、同年、アメリカの美術史家アーネスト・フェノロサたちがひらいた展覧会では将来有望な若き日本画家として注目を集めました。その後、文人として名高い岡倉天心からの指導も経て、1889年には開校したばかりの東京美術学校に第一期生として進学しています。

 

在学中は同級生であった横山大観らと共に切磋琢磨し、卒業後には東京美術学校の助教授となりましたが、20代中頃に師である岡倉天心が同校を退職。その後、横山大観らと日本美術院の設立に奔走すると、下村観山もそれに参加しました。結成後、同団体と日本絵画協会が催した連合展に出品した作品は最高賞を受章し、アーネスト・フェノロサからも評価を得ていますが、日本美術院が目指し、下村観山が描いた新しい日本画の画風には批判の声も多くあったと言われています。

 

 

やがて下村観山は、東京美術学校に一時的に復職し、30歳の頃にヨーロッパに渡ると、本場の西洋画の研究を始めました。主に色遣いに注目し、大英博物館やイタリアのウフィツィ博物館の作品を模写してまわり、色彩だけでなくその技法も磨いき、穏やかさの中にも品の感じられる作風の確立に近づいていきます。帰国後は日本美術院の拠点移動に合わせて自らも家族と共に茨城県へ転居し、翌年には文展に作品を発表すると同時に審査員にも従事。実業家からの支援を受けながら、国内外で研究した成果を作品制作に活かしていきました。

この間には横浜へ引っ越し、40歳の頃に岡倉天心が亡くなると、横山大観と共に日本美術院の再興に打ち込んでいきます。文展の審査員もやめ、以降はこの再興した日本美術院の展覧会に出品を重ね、1917年には帝室技芸員に選ばれるまでとなりました。

 

そして1930年、57歳で息を引き取っています。

 

 

 

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