江戸時代、天保の時期に生まれ、昭和前期にかけて活躍した画家です。
日本画を描いたほか、美術家としても知られ、国外に日本画を広めた一人でもあります。
杉浦俊香の歴史
1844年に現在の静岡県に位置する駿河国で生まれた杉浦俊香は、徳川家の家臣の家の三男として育ちました。幼い頃から絵を描くことを特に好んでおり、5歳を過ぎた頃には大人が驚くほどの技術で絵を描くことが出来たと言われています。その後10代になると儒家の松岡恕庵に筆の運びを習い、また天台宗の僧侶にも指導を受け、仏学や道学を学びました。このような教えを受けたこともあり、1870年代には明治政府の行った改革の影響が宗教にも及んだことを案じ、杉浦俊香は各宗派の代表となって意見するに至っています。
一方で絵を描くことも続けていた杉浦俊香は、やがて40代後半になると中国に視察に向かう機会を得、滞在先で清の人々に披露した自身の絵は「(中国の)伝統にのっとった作品だ」という旨の言葉で称賛されたと言われています。帰国後は国内で活動していましたが、1898年頃に岡倉天心らと意見を違えたことをきっかけに、自身の活動を改めて見直し、その後は多くの国に日本画の紹介をして周りました。
また制作活動も並行し、のちに行われた内国勧業博覧会では2つの作品を発表し、翌年、60歳の時には当時の官僚や教育者たちから美術学校の教壇に立つことを勧められるほどとなっています。それまで日本国内に大々的に名を広めるような活動は行ってこなかった杉浦俊香でしたが、1906年には凱旋記念五二共進会美術部第一回監査会に作品を出品。これが川合玉章らの作品と共に優待室に並べられたことをきっかけに徐々にその名を知られていきます。ここで展示された2作品は、室町時代から安土桃山時代に活躍した水墨画家や絵師の作品に通ずる、技法や雰囲気が感じられると称賛され、翌年には杉浦俊香の山水画作品が、パリの展示会で東洋絵画では初めて展示を許可されました。
これを受けて60代の頃からは自身の作品を持ってアメリカやフランスを周り、改めて日本画の魅力を国外に伝えるべく尽力し、ルーヴル美術館からはその展示を認められています。
以上のような功績が認められ、杉浦俊香はフランス共和政府からの勲章を受章。また70代以降も積極的に活動し、国内で展覧会を開催したほか、再びアメリカやドイツ、フランスなど欧米諸国を巡り、東洋絵画の普及に務めました。80歳の時は中国にもわたり東洋絵画について現地の美術学校の校長らと意見交換を行うなどしています。
翌年にはフィラデルフィア万博へ出品するなど晩年まで美術家、そして画家として活躍し、そして1931年、86歳で息を引き取りました。