和骨董大辞典

  • TOP
  • 和骨董大辞典

上村松園(うえむらしょうえん)

 

明治の初め頃から昭和前期にかけて活躍した女流画家です。

日本画の作品で名を馳せ、特に美人画を得意としました。

 

 

上村松園の歴史

 

1875年に京都にある茶屋の娘として生まれました。父は上村松園が生まれる前に亡くなっており、母に育てられたといわれています。幼い頃から絵を描くことを好み、小学校を出ると、日本初であった京都の画学校に進学。しかしながら約1年後にはカリキュラムに沿った指導に物足りなさを感じ、13歳にして日本画家の鈴木松年に師事し始めました。当時、女性が職を持つことに対して批判的な意見が多い中でも、熱心に修行に励み、2年後には「松園」の名で内国勧業博覧会で発表した作品が、1等褒状を獲得。さらに同作がイギリスの皇太子の目に留まりそのまま購入されたことも話題となり、上村松園は10代半ばでその名を世間に広めることとなっています。

 

その後、より自身の腕を磨くべく京都画壇の代表的人物でもあった竹内栖鳳にも指導を受け、ほかにも漢学や詩を学び、より知識を深めていきました。これらを活かした作品で数々の展覧会で連続して受賞していき、文展では40代前半の頃から永久無鑑査に。またドイツの日本画展やアメリカで行われた万国博覧会にも作品を出品し、国内外で活躍するようになっていきます。各展の審査員や御用作品も多く手掛け、帝室技芸員となると、1948年にはこれらの功績が認められ、文化勲章を受章。70代前半の時期に受賞したこの賞は、女性としては初めての受章でした。

 

そして翌年の1949年、75歳で息を引き取っています。

 

 

 

鈴木松年(すずきしょうねん)

 

江戸の末期、嘉永の時代に生まれた日本画家です。父の鈴木百年は絵師として活躍しており、松年自身も幼い頃からその指導を受けていました。しかし、同時に喧嘩事や軍談を好む一面もあり、画家としての道を行く決意をしたのは20代になった頃だったと言われています。

絵に打ち込むようになってからは父の存在が大きく、苦労する面もありましたが、徐々に周囲から評価され、33歳の時には京都の画学校で教壇に立ち始めました。自身の制作活動も並行して行っており、同時期から各種展覧会に出品し始めた作品は受賞を繰り返し、1890年には内国勧業博覧会展で妙技三等を獲得。41歳で教職は辞めていましたが、1848年以降は画家仲間たちと古い日本画の研究に勤しみ、日本画についての理解をより深めています。

 

その後も各展で優秀な成績をのこし、1907年の有名な日本画家を集めた番付ではかなりの上位に位置づけられました。そして1918年、71歳でその生涯を終えています。

 

 

 

買取に関するお問い合わせ

ご相談やご質問など、まずはフリーダイヤルでお気軽にお電話くださいませ。
  • お電話でのお問い合わせはこちら tel:0120-424-030
  • メールでのお問い合わせ