和骨董大辞典

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中村不折(なかむらふせつ)

 

江戸時代末期、1866年から昭和中期にかけて洋画家、または書家として活躍しました。書家としての作品は、食品メーカーの新宿中村屋の表記などをはじめとして現在にも遺されています。

 

 

中村不折の歴史

 

東京都で生まれた中村不折は、4歳の頃に明治維新の動乱を避ける為、父の故郷であった長野県に一家で移動しました。幼少期から絵を好んでおり、10代になってからは南画家の真壁雲卿から南画を、また北原安定や白鳥拙庵にそれぞれ漢文や書を学ぶなどしています。そして21歳になり、代用教員として働き始めた中村不折は、翌年の夏季休暇中に画家の河野次郎に洋画を学ぶ機会を得、美術の道を志す意思を強めました。

 

その後まもなく教職を辞め上京すると、官僚の高橋是清の家に世話になりながら画塾の不同舎に通い、ここで小山正太郎について絵の勉強に打ち込んでいきます。そして1890年、明治美術会の展覧会に水彩画を初出品すると、翌年からは油彩画の制作にも挑戦し始めました。制作した作品を展覧会に出品していく一方で、20代後半頃には新聞社の「日本」にて挿絵担当として活躍し始め、この頃から“不折”の名で活動するようになっています。30代になり結婚したのちも仕事は継続し、島村藤村の挿絵を担当するなどしたほか、この間には日清戦争の出兵で自らも中国に渡っており、書にも興味を持ちました。また、34歳の時には明治美術会展に2作品を出品し、その内一方は翌年のパリ万博で賞を受賞、もう一方は宮内省買い上げ品となり、中村不折はその名を大きく広めています。

 

やがて中村不折は自身のアトリエを持つようにもなりましたが、画法の修行は怠らず、35歳から約4年の間フランスに渡り、本場で西洋絵画を学びました。現地では黒田清輝なども指導したフランス人画家のラファエル・コランに学んだほか、美術学校のアカデミー・ジュリアンに通って腕を磨き、同校で開催されたコンクールで入賞。さらに彫刻家のオーギュスト・ロダンのもとに訪れデッサンをもらい受けるなどし、1905年に日本に戻っています。

帰国後は太平洋画会にて活動しながら継続して挿絵画家としての仕事も行い、夏目漱石の代表作として知られる『吾輩は猫である』をはじめとした数々の有名著書の挿絵や題字を手がけました。40代前半には新たに朝日新聞に移りますが、以降も晩年まで展覧会への絵画作品の出品を続けながら、書家仲間といくつかの団体を結成するなど積極的な活動を続けています。太平洋美術学校の初代校長や書道美術館の創設など要職を務め、1943年、78歳で息を引き取りました。

 

 

 

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