和骨董大辞典

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中村彝(なかむらつね)

中村彝(なかむらつね)

 

1887年に生まれ、その画風は印象派の画家レンブラントとルノワールに強い影響を受けたものでした。

 

中村彜の歴史

 

茨城県で5人兄妹の末っ子として生まれた中村は、1歳になる前に父を亡くし、10代の頃には1人の姉と2人の兄、そして母を相次いで亡くしました。11歳で上京し、軍人である兄の家で育った中村は、兄の影響から軍人を目指し始め、名古屋の陸軍地方幼年学校に入学します。厳しい訓練にも耐え同校を卒業し、その後東京の陸軍中央幼年学校に進学してエリートへの道を進んでいた中村でしたが、この時肺結核を発病し、学校は退学しました。

 

やがて療養の為千葉県に訪れ、同地で水彩のスケッチを始めたことで、中村は画家になることを意識し始めます。もともと小学校の時の友人の影響から絵画に興味のあった中村でしたが、これをきっかけに白馬会洋画研究所で洋画を学び、その間にも千葉県での療養とスケッチは繰り返しました。20歳の時には太平洋画会研究所でさらに洋画研究を行い、レンブラントなど西洋画家の作品にも感化されます。その2年後には文展に出品した作品が入選、そして褒状の受賞を果たしました。

この頃、中村は新宿の中村屋の裏に位置するアトリエを借りており、中村屋の相馬夫妻と親交を深めました。中でも長女の俊子とは親密な関係となり、俊子がモデルを務めた作品は文展で3等を受賞しましたが、中村の病を理由に結婚には至りませんでした。

 

失恋の末、新宿を離れ日暮里や大島など制作地を点々とした中村でしたが、29歳から移住した下落合のアトリエで晩年まで制作活動を行っています。アトリエには友人も多く来訪し、この間にルノワールの作品を実際に目にした中村は、さらに制作に打ち込むようになりました。中村の代表作として知られる盲目のロシア人を描いた『エロシェンコ像』は、この間に描かれたもので、作品からはルノワールやレンブラントからの影響を強く感じることが出来ます。

 

その後、休息も飲食も忘れ没頭していた制作活動への無理がたたって病状が悪化し、34歳の時にはすでに作品の制作はほとんど行っていませんでした。最晩年は痩せこけた自身をモデルにした自画像を描き、37歳で息を引き取っています。

 

 

 

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン

 

バロック絵画を代表する画家のひとりとしてヨーロッパの美術史的にも、歴史的にも、その名は広く知られています。レンブラントは1606年にオランダの中流階級の家に生まれ、ラテン語学校を経て飛び級で大学へ進学。その後画家を志しますが、美術学校もなかった当時は、イタリアへの留学経験のあった歴史画家に師事しました。3年間の修行ですでに良い評判を得ていたレンブラントは、独立後、宗教画や肖像画を得意とする画家として活躍していきます。貧困状態に陥っても絵と芸術の研究を生涯続けるなど、非常に熱心な制作活動を行い、巧みな明暗技法を用いた作品を生み出す画家として、現在でも世界的に知られています。

 

 

 

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