大正末期に生まれ、平成末期にかけて活躍した洋画家です。戦争を経験したのち世界各国を周り、自身の周囲の風景を濃密な色合いで表現しました。
中西勝の歴史
中西勝は1924年に大阪市の貿易業を営む家に生まれました。幼い頃から絵を好んでおり、縁のあった日本画家には絵を描く様子を見学させてもらっていたと言われています。そして中学校に進学すると、友人に勧められて美術部に所属し油彩画を始め、美術の道に進むことを志すようになりました。
18歳からは中之島洋画研究所や、彫刻家である保田龍門の工房で本格的に素描を学んで美術学校への進学に備え、翌年、帝国美術学校の西洋画科に合格。在学中は西洋のものを始め、多くの芸術作品を学んだ影響からか、自身の作品制作にも試行錯誤を重ねています。さらに並行して川端画学校へも通うなど熱心に絵を学んでいましたが、学徒動員で1944年には戦地へ送られることとなりました。約2年の間を中国の山奥や収容所の中で過ごし、22歳で復員すると帝国美術学校を卒業。故郷大阪の美術館に設置された研究所に通い、小磯良平らから改めて指導を受けるなどし、1949年には神戸の中学校で図画教員として教壇に立っています。そして同時期、以前大阪で絵を学んだ田中孝之介に、展覧会への出品を勧められたことがきっかけで二紀会に作品を出品し、見事二紀賞を獲得しました。こうして名を広めた中西勝は、神戸に拠点を置く若手画家たちと新神戸洋画会を創立し、同会で積極的な作品発表を行ったほか、二紀会へもほぼ毎年出品を行い、同人への推薦や努力賞、桜新人賞、の受賞など次々と賞を受けています。
1952年からは田中孝之介が設立した研究所で後進の教育に力を注ぎながら自身の制作活動を進め、現代日本美術展や日本国際美術展など、二紀会以外の展覧会にも出品を行うようになりました。さらに関西と関東での個展の開催も成功させています。1965年からは約5年間の世界一周の旅へ出ており、アメリカやメキシコ、ヨーロッパを巡りながら1000以上の具象画を仕上げ、ポルトガルでは個展を開催するなどして日本に帰国。帰国後は二紀展への出品を再開して同展で文部大臣賞や菊華賞をはじめとした数々の賞を受賞したほか、神戸学院大学の美術専任教授、二紀会の理事など要職を歴任しました。
晩年は阪神淡路大震災に被災しながらも、復興募金用テレホンカードや支援組織の副委員長を務めて復興に尽力し、2015年、91歳で息を引き取っています。