和骨董大辞典

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九谷焼(くたにやき)

石川県の南部を中心に焼かれている磁器です。九谷焼には「古九谷」と呼ばれるものとそうでない物があり、17世紀半ばに窯が築かれてから、18世紀初頭に廃窯になるまでに製造されたものが「古九谷」、またそれから約100年した後に再興して作られたものが古九谷以外となります。

「絵付けなくして九谷なし」という言葉が出来上がるほど九谷焼の絵付けは優れており、窯の再興後も絶えず磨かれた彩色技術は、明治期には海外輸出品の「ジャパンクタニ」として、ウィーン万博にも出品されるなどして世界に広まりました。彩色に使われる赤・緑・黄・紫・紺青の特徴的な色は「五彩手」と呼ばれています。

 

 

 

九谷焼の歴史

 

 

九谷焼は江戸時代初期、大聖寺藩藩主の前田利治が家臣の後藤才次郎に有田の製陶技術を覚えさせ、九谷で発見された良質な陶土でやきものを制作したのが始まりだと言われています。この九谷の地で焼かれた色絵磁器は当時、古伊万里や柿右衛門などと並んで非常に高い人気がありましたが、窯が築かれてから100年ほどで原因不明の廃窯となってしまいました。ここまでの期間に制作されていた作品は現在「古九谷」と呼ばれ珍重されています。

 

九谷焼が廃窯となってから再び窯が築かれるまでには約110年がかかりました。窯が出来るまでの間、江戸で伊万里焼が流行したことに注目した加賀藩が、失業者の救済や産業の推進のために京都から陶工の青木木米を招いて窯を築いたのです。

 

再興した九谷焼は続々と窯が増えると共に装飾技術も高まっていき、明治初期には九谷庄三の手によって完成された、色彩豊かな「彩色金襴手」という絵付けが流通しました。日本の工芸品の人気が海外で高まっていた当時、この「彩色金襴手」が用いられた作品も欧米人の間で「ジャパンクタニ」と呼ばれ高い評価を得、世界的に九谷焼の名が広まります。

 

 

その後も九谷焼の技術は発展し、人間国宝を生むなど、現在でも美しい絵付けが施された作品が制作されています。

 

 

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