江戸時代中期、元禄の時期に生まれ、画家、または漢詩人として活躍しました。
非常に勤勉で、複数の流派の技法について熱心に学んだほか、当時の儒学者や文人たちとも交流を持っています。
五十嵐浚明の歴史
五十嵐浚明は1700年に新潟県で生まれています。実家は佐野という姓の商家でしたが、五十嵐浚明は5歳に満たない頃に両親を失い、農家の五十嵐家で育てられました。五十嵐家が浚明を引き取ったのは、佐野の家が絶えてしまうことを憐れんでのことでしたが、養家に恩を感じていた浚明は、のちに自ら五十嵐の姓を名乗ったと言われています。
幼い頃から絵に興味を持っていた五十嵐浚明は、当初は養家で趣味として楽しみながら家業の農業に勤しんでいましたが、たびたび僧に指導を受けることもありました。そして30歳になった頃、ついに本格的に絵を学ぶ決心をし、上京。狩野派の絵師・狩野良信に学びながら、並行して儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)から学問を学んでいきます。しかし、狩野派の教えだけでは物足りないと感じてか、五十嵐浚明は1年ほどで一旦帰郷しており、まもなく京都を訪れました。
現地では、同じ故郷である神堂家の竹内敬持(通称・竹内式部)から経学を習いながら、宇野明霞や郷片山北海などの儒学者と親交し、また絵については中国、特に南宋と北宋の画家である梁楷や李公麟の作品や、明時代の画家・張平山による人物画などを深く研究していきます。こうして五十嵐浚明は狩野派だけでなく大和絵や北宋画、南宋画など幅広い流派の画法を学んで腕を磨き、京都滞在中に法眼の位を授けられるほどとなりました。同年、44歳で郷里に戻りますが、この際には京都で交流した数々の文人から贈り物をされており、中には前述の竹内式部などのほか、文人画家の池大雅や公家の近衛家、徳大寺家から詩や詩書画をもらい受けています。また、この間に結婚も果たしました。
帰郷後は、三人の子供に恵まれ、画業に専念する為に自宅に設置した楼閣に籠るものの、1年しない間に飛び火で建物が燃えてしまい、蔵での生活となったほか、60歳になる前には地元の川の決壊や飢饉などの自然災害に直面すると、自身の財産や家財を換金して人々を助けるなど地域に密着した生活を送り、新潟から住居を変えることはなかったと言われています。また、一時期は公家の高官から「呉」の姓を授かり、10年ほどの間、自らを“呉浚明”と名乗っていました。
新潟に移った後も幾度か関西地方に訪れていた五十嵐浚明は、その後70代になっても絵師として大いに活躍しており、天皇の命を受けた作品制作や、長岡藩の藩主からその褒賞を授かるなどしています。そしてこの70代からは、自身が三日三晩続けてみた富士山の夢を基に、自身の号を“孤峰”と称しました。
やがて81歳になると、自身の死期を悟った五十嵐浚明は両親の墓前と親戚にあいさつに周り、8月に息を引き取ったと言われています。
ちなみに、五十嵐浚明の息子たちも得の才能に恵まれ絵師として活動しましたが、佐野の姓は五十嵐浚明の三男である元敬が後を継いでいます。