江戸末期、1850年代に生まれ、大正初期にかけて画家として活躍しました。洋画家の五姓田芳柳の息子としても知られています。
五姓田義松の歴史
1855年に五姓田芳柳の次男として生まれた五姓田義松は、幼少期から父に西洋画を勧められ、10歳の時にはイギリス人画家のチャールズ・ワーグマンに弟子入りしました。当初は横浜のワーグマンの元まで江戸から通っていましたが、10代を過ぎると横浜に移住してより熱心に絵の勉強に励み、16歳の頃には独立を果たしています。五姓田義松がワーグマンのもとに入門した翌年に入門した、義松とは25歳の年の差である画家の高橋由一が当時貧困にあえぐ中、五姓田義松はすでに自身の作品を販売して得た利益で家族と共に生活しており、洋画家として早くも生計を立てていました。
その後、20歳の時には陸軍の士官学校で教師を務め約1年後には退職。翌年、22歳で工部美術学校に進学しますがこちらも1年経たない内に退学し、明治天皇や昭憲皇后をはじめとした皇室関係者より肖像の制作を依頼されるようになっていきました。この制作依頼は当時の日本画壇の芸術家たちにとって非常に名誉なことで、依頼を終えると、五姓田義松は今度はフランス画壇での活躍を目指すようになっていきます。そして25歳で渡仏すると、現地の画家に師事しながら、翌年にはサロン・ド・パリへの出品作で日本人初となる入選を獲得しました。
以降もフランスで活動を続けましたが、生活は苦しく、30代半ばの頃にはアメリカを経て日本に帰国。帰ってからは明治美術会の設立に携わり、一時期は美術会社に務めましたが長くは続けずに横浜で制作活動に耽ったと言われています。晩年まで横浜で外国の兵士などに土産として人気だった横浜絵を制作し、1915年、60歳で息を引き取りました。
レオン・ボナ
五姓田義松がフランスで師事した画家です。1833年に生まれ、20世紀初頭にかけて活躍しました。フランスで生まれましたが、幼少期は父の仕事の都合でスペインで過ごし、10代の頃はそこで出会った画家から絵の指導を受けたと言われています。その後フランスへ戻り、21歳の時にパリに出ると、肖像画家として活躍を始めました。
レジオンドヌール勲章やサロンでの賞を次々と受賞し、サロンの審査員や、自身の母校でもあるエコール・デ・ボザールの教授など、要職を歴任。やがて1905年には同校の学長を引き継いでいます。カイユボットやジョルジュ・ブラック、ロートレックなど後世にも名を残すこととなった後進の指導にも当たり、1922年、89歳で息を引き取りました。