江戸時代、1820年代後半に生まれ、明治半ばにかけて活躍した洋画家、または浮世絵師です。肖像画を多く描き、弟子とした二代目五姓田芳柳も知られています。
初代五姓田芳柳の歴史
五姓田芳柳は1827年に貴州藩士の子として生まれましたが、幼少期に両親が他界し、その後は元佐竹藩士の養子となって育てられています。そして15歳になった頃に浮世絵師の歌川国芳に弟子入りしたことがきっかけとなり、絵の道に進むことを決心しました。浮世絵を学び始めた五姓田芳柳でしたが、弟子入りから2年後には約5年間の遊学に出発し、この時長崎で初めて西洋絵画を目にしています。その後1849年には日本画家の樋口探月に弟子入りし学びましたが、これを長崎で見た西洋画に近づけようと陰影法を使った表現を取り入れ、五姓田芳柳は独特の画風を確立しました。この間、遊学から帰った21歳の時に結婚し、やがて5人の子供をもうけています。その内2人と娘婿は五姓田芳柳と同じく画業を営むようになり、中でも娘婿である子之吉は、五姓田芳柳の名を受け継ぎました。
30代になる頃には初めて西洋人と出会う機会を得たことで油彩画を見ることとなり、この頃から横浜絵の制作を始めています。この横浜絵とは江戸末期から明治初期にかけて描かれた、横浜を題材とした浮世絵のことで、当時はまだ珍しかった商館風の建物や港、輸入された外国文化などが描かれていました。五姓田芳柳の師でもあった歌川国芳をはじめとする多くの浮世絵師もこの横浜絵を描きましたが、中でも五姓田芳柳は絹地に陰影をつけながらこれを描いて油彩画風の横浜絵を編み出し、外国の兵の土産用として売り出したことで話題を呼んでいます。
1878年、明治期に入ると外国人肖像画やそのほか屏風なども制作するようになり、徐々に弟子をとるまでとなっていきました。40代半ば頃には浅草に工房を置き、明治天皇や昭憲皇太后の肖像の制作、解剖学用の馬の解剖図の制作などを手掛けていきます。この間、1877年の内国勧業博覧会に出品した『阿部川富士』は洋画部門の最高賞を受賞しますが、以降も五姓田芳柳は肖像画の制作を活動の中心とし、55歳の時には肖像画注文を受注する「光彩社」を創設。そのほか、文部省のからの依頼で新潟の学校教師たちに図画を教えるため教壇に立つなどし、東北地方の遊学も行いました。
1885年には「五姓田芳柳」の号を2代目に引き継ぎ、晩年はアメリカ旅行なども行っています。そして1892年、66歳で息を引き取りました。