亜欧堂田善は江戸後期、寛延の時代に生まれた画家です。
浮世絵も多く流通する中で、洋風の作品を描いたほか、銅版画も制作しました。
「亜欧堂田善」以外に、「亜欧陳人」や「星山堂」などの号も用いています。
亜欧堂田善の歴史
亜欧堂田善は、1748年に現在の福島県で生まれ、永田善吉と名付けられました。生家は裕福な農具商だったと言われていますが、10歳になる前に父を亡くし、そのあとは兄の営む染め物屋で働いていきます。この間には、兄が絵を趣味にしていたことがきっかけで善吉も兄に絵を習い始め、10代半ばの頃には地元の寺の絵馬に採用されるほど、見事な作品を描いていました。
やがて30代後半の頃、伊勢参りへ出かけた際に知り合った画僧の月僊に弟子入りすると、本格的に絵を学んでいきます。ここで学んだ月僊の画風は、のちの亜欧堂田善の作品にも影響を与えたほか、この頃から善吉は、号である「田善」を名乗り始めました。この時点で、当時の感覚から言えば若いとは言い難い年齢となっていたこともあり、1791年に染め物屋の店主をしていた兄が亡くなった際には田善がそのあとを継いでいます。しかしのちに46歳となった頃、田善の作品が白河藩の藩主である松平定信の目に止まったことで、田善は再びその才能を認められました。
その後松平定信に命じられ、当時田善よりも年下ではありましたが、すでに御用絵師として仕えていた南画家の谷文晁に師事。谷文晁は琳派や円山派をはじめとする大和絵の複数の流派のほか、西欧や朝鮮の絵についても教養があり、田善には中でも洋画について指導を行ったと言われています。
また、現在知られている田善の「亜欧堂」の号も、亜細亜(アジア)と欧羅巴(ヨーロッパ)に亘る、という意味合いから谷文晁に授けられたもので、御用絵師から指導を受け号も授かったことで、もともと商家の出だった亜欧堂田善はこの頃から身分も認められ帯刀も許可されました。
一方で、松平定信にその才能を見出されてからしばらくの間、亜欧堂田善は長崎に出て銅板画について学んでいたとも言われています。
当初は絵師であり蘭学者でもあった司馬江漢にその技法について指導を受けますが、間もなくして“覚えが悪い”と司馬江漢に師弟関係を解消されました。その後は松平定信の紹介によって知り合った蘭学者などの協力を得て、独自に銅板画を研究。それまでの師匠たちから吸収してきた様々な技法と知識を活かし、緻密かつ洋画的表現、そして江戸時代であった当時の風景を題材とした、亜欧堂田善独自の表現を確立していきました。
やがて司馬江漢自身が、亜欧堂田善の技法が自分を上回る、ともいうようになり、亜欧堂田善は銅版画家としての地位を固めていきます。
さらに、60代になると編み出した技法は作品制作のほか、蘭方医・宇田川玄真による和訳書の、解剖図の挿絵を入れ込むために使用するなど日本で初となる銅板画の解剖図の制作にも活用。また2年後には松平定信からの期待もあった、こちらも日本初といわれる銅版画による世界地図を仕上げました。
50歳頃から御用絵師として仕えてきた亜欧堂田善でしたが、主であった松平定信の子が三重県に移ったことを期に、70歳を手前にして御用絵師を辞退。以降は元の町絵師として、晩年まで故郷で作品を制作したと言われています。町絵師となると御用絵師の時ほど簡単に銅版画に必要な道具を手にすることはできなくなりましたが、親しくしていた俳人・石井雨考の句集のために挿絵を描いたり、商人と共に、自身の持つ銅版で布ものや団扇に図を刷って売り出すなどして生活しました。
銅版画によって当時は新鮮であったであろう洋風な技法を駆使した風景画で名を広めた亜欧堂田善ですが、元に学んでいた肉筆画のほか油彩画なども残されており、その影響はのちに活躍し、現在では田善以上に名の知られる浮世絵師たちにも及んでいます。
晩年まで地元の人々のための絵師として活躍し、1822年、75歳で息を引き取りました。