佐賀県の有田町周辺で製造されている磁器です。この伊万里焼、有田焼とは元々もの自体に違いはないものの、有田周辺で焼かれる磁器が「有田焼」として国内外での知名度が高まり、のちにその有田焼が佐賀県伊万里市の伊万里港から出荷されたため、港の名前をとって「伊万里焼」とも呼ばれるようになったと言われています。
綺麗な白い磁器に施された色鮮やかな絵付けが特徴とされ、彩色には主に呉須の藍色と発色の美しい赤色が使われます。
有田焼の歴史
有田焼の始まりは江戸時代初期、佐賀藩主の鍋島直茂によって朝鮮から招かれた陶工、李参平によるものです。当初、多久という土地で陶器を制作していた李参平でしたが、更なる品質の向上を図り材料を探し、ついに良質の磁石を発見したのが有田の地でした。
ここで発見した材料を用いて焼き上げられた磁器は非常に質が良く、当時人々が美しい白色をした中国磁器に憧れる中で、有田焼はより安価で流通した事により評判を呼び、急速に広まっていきました。この時に広まった有田焼は白磁の地に藍の模様が施されたものが多く見られましたが、1640年頃になると初代柿右衛門によって「赤絵」を描いたものも誕生しています。
その後も美しい白地を活かした鮮やかな装飾に加え、金を交えて模様を表現する「金彩手」など、有田焼の装飾技法は発展を続けていきました。
江戸時代中期からは東インド会社を通し海外にも輸出されるようになり、ヨーロッパでは柿右衛門写しの食器が流行するなど、通称「IMARI」と呼ばれ親しまれていきます。
このように様々な装飾技法を用い、江戸時代までに製造された有田焼は「古伊万里」と呼ばれていますが、江戸以降も、有田焼の美しい絵付けは評判を集め続けました。
明治時代には万国博覧会に出品されたことで注目を集め、売り上げと生産が上昇したと共に、現在では「有田窯業大学校」が設立され陶工の育成が進んでいます。