和骨董大辞典

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伊原宇三郎(いはらうさぶろう)

 

明治後期から昭和後期にかけて活躍した洋画家、そして美術家です。国内外の美術団体の発展に尽力し、国内ではピカソの名を日本により広く知らしめた人物としても知られています。

 

 

伊原宇三郎の歴史

 

徳島県で一家の三男として生まれ、中学校卒業後は藤島武二に絵を学び始めました。その後22歳の時に東京美術学校の西洋科へ入学すると、翌年から光風会や太平洋画会の展覧会での入選、月刊誌の表紙や挿絵担当、さらに帝展への出品作が2回も入選作品として選ばれるなど在学中にもその才能を広く発揮しています。やがて27歳の時に同校を首席で卒業しますが、その際に制作した作品も文部省の買い上げとなりました。

 

その後1924年には作家の由紀しげ子と結婚し、翌年には国から派遣された海外実習練習生としてフランスへ渡っています。滞在した約4年半の間には現地で当時活躍していた画家達に感銘を受け、中でもパブロ・ピカソの作品には大きな影響を受けました。伊原宇三郎はのちに日本に帰国してからもこのパブロ・ピカソの影響のもと著書や作品を多く制作してピカソの名を広めた為、ピカソの「追随者」と言い表されることがあるほどです。また、滞在中はルーヴル美術館にて古典絵画にも関心を寄せ、19世紀前半に制作されたドミニク・アングルの作品『グランド・オダリスク』の模写などをしていく中で自身の画風を確立していき、サロン・ドートンヌでも2回の入選を獲得しました。

 

30代半ばの頃には一時日本に帰国し、以降は日本で制作活動を続けています。帰国直後からの帝展では第10回、11回、13回の出品作が特選に選ばれ、これらの功績もあってか1932年には東京美術学校の講師を。またその2年後には帝展の審査員も務めました。戦時中は陸軍から任命され戦争記録画を描くなど、嘱託画家としても活動しています。

やがて戦後になると日展の審査員のほか、日本美術家連盟や文芸美術国民健康保険組合の役員、国立西洋美術館の設置、国内外の美術家の国際交流の活性化などに尽力し、日本の美術界の発展に尽力していきます。また制作活動も行い、62歳の時にはヴェネツィアで開かれるヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表に。そして1960年にはフランスで芸術文化勲章を受章しました。日本では72歳の時に勲三等瑞宝章、また77歳の時に紺綬褒章を授与され、1976年、82歳の時に息を引き取っています。

 

 

 

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